映画を観て、想うこと。

『父親たちの星条旗』を観て。

父親たちの星条旗』 2006
【原題】Flags of Our Fathers
【監督】クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)

 

 

"Now, the right picture can win or lose a war."
「劇的な写真は時に戦争の勝敗すら決めるものだ。」

 

太平洋戦争で最も激しい戦いと評される「硫黄島の戦い」を、巨匠クリント・イーストウッドが日米双方の視点から描いた「硫黄島2部作」。本作はその1作目、アメリカ兵の視点から「硫黄島の戦い」が語られる。

硫黄島の戦いにおける最重要拠点である摺鉢山(すりばちやま)を陥落させたアメリカ軍は、山頂に星条旗を掲げる。この瞬間は写真に収められ新聞に載り、戦争で疲弊していた多くのアメリカ本土の人々に勝利が目前であるという希望のメッセージを与える。この写真に写っていた3人の兵士は帰国後、戦争の英雄としてもてはやされ、戦費調達のためのプロパガンダに利用される。命からがら死地から生還した彼らは、英雄扱いされることに葛藤するのだった。

 

"Most guys I knew would never talk about what happened over there. Probably because they're still trying to forget about it. They certainly didn't think of themselves as heroes."
「私が知る者は皆あの戦場の話を嫌った。たぶん忘れたかったんだろう。彼らは断じて、自分自身を英雄だとは思っていなかった。」

 

歴史の教科書などで誰しも一度はこの印象的な写真を目にしたことがあるのではないか。第二次世界大戦中にアメリカの写真家ジョー・ローゼンタールにより撮影された報道写真「硫黄島星条旗」、太平洋戦争を象徴する写真だ。ローゼンタールはこの写真でピューリッツァー賞も受賞している。現代に生きる我々が見てもパワフルなこの写真が、当時のアメリカ人にどれほどのインパクトをもたらしたか、想像に難くない。

 

当然のごとく、戦地から遠く離れた人々は興味を持つ。「この写真に写っているのは誰なんだ?」、「ウチの息子に違いないわ!」となってしまうのも無理はない。なんてことは無い(って言ったら申し訳ないが)、ただ数人の兵士が旗を立てているだけの写真なのに。報道において、写真は言葉よりも多くを語る場合がある。それが戦争中という極限状態であれば、人々のナショナリズムへの影響も一入に大きかったに違いない。

 

アメリカ人にとっての星条旗は、日本人にとっての日章旗(日の丸)とはまた少し違う価値を持っているように思う。イギリスからの独立を勝ち取った移民で構成された自由の国、アメリカ。彼らは建国当初より、この旗の下で一致団結してきたのだ。アメリカ人にとってこの旗は自らのアイデンティティそのものなのかもしれない。だから、アメリカの国歌のタイトルは「星条旗(A Star-Spangled Banner)」、激しい戦いの中でも勇ましく翻っていた星条旗のことを歌っているのだ。アメリカを束ねてきたこの旗が、世界中を巻き込んだ大戦の激戦地(敵地)に立てられることの意味は、この映画を通して我々も少しは理解できる気がする。

 

“I finally came to understand why they were so uncomfortable being called heroes. Heros are something we create, something we need."
「彼らがなぜ英雄と呼ばれるのを嫌がったのかわかる気がする。英雄とは必要に応じて人が作り上げるものだ。

 

この作品のキーワード「英雄」。英雄と聞くと、どうしても崇高なイメージを思い浮かべてしまうが、戦争において英雄という言葉は危険な勘違いを生んでしまう。戦場で目にした光景、自らの行い、散っていった仲間たちを想えば、兵士はこの称号に手を叩いて喜べないのだろう。本作に登場する3人の若いアメリカ兵たちもまた、この「英雄」という言葉に苦しむことになる。たまたま写真に写り、たまたま生き残っただけなのに、皆が自分たちを「英雄」と呼ぶ。その称号に相応しい者は、あの地で死んでいった者たちのはずなのに。祭り上げられるほど、ちやほやされるほど、「英雄」と呼ばれることに耐えられないのである。戦争を生き延びてもなお、それこそ死ぬまで葛藤し続ける彼らの姿が目に焼き付く。

 

"They may have fought for their country, but they died for their friends."
「彼らは国のために戦ったのかもしれないが、友人たちのために死んだの。」

 

戦争が終わってもなお、戦争に勝ってもなお、生き残ってもなお、苦しみ続けた兵士たちを描いた本作は教えてくれる。

 

戦争に、英雄はいない。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『アデライン、100年目の恋』を観て。

アデライン、100年目の恋』 2015
【原題】The Age of Adaline
【監督】リー・トランド・クリーガー(Lee Toland Krieger)

 

 

“Tell me something I can hold on to forever and never let go.”

“Let go.”

 

ある事故と、その時に起きた奇跡がきっかけで、年を取らない体になってしまったアデライン・ボウマン(ブレイク・ライブリー)。100歳を超えている彼女の容姿は29歳のまま、名前を変え、住まいを変え、世間から身を隠しながら孤独に暮らしていた。一人娘フレミングエレン・バースティン)もいつしか自分の年齢を越え、祖母と偽らざるを得なくなり、唯一心を赦せる愛犬に先立たれる喪失感にも耐えられなくなっていた。そんなある日、彼女は青年エリス(ミキール・ハースマン)と出会い、恋に落ちる。しかし、100年におよぶ人生の中で、アデラインはエリスとの間に不思議な縁があることに気がつく。

 

“I mean a future together, growing old together. Without that, love is, uh… It’s just heartbreak.”
「2人で共に老いていく将来のことよ。それがなければ愛は…辛いだけ。」

 

ファンタジーラブロマンス、SF(Science Fictionの略)に、ほんの少しサスペンスのエッセンスが加わった、「数奇」な雰囲気を持つ一作。「数奇」といえば、2008年に公開された『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(老人として生まれ、年を取るごとに若返っていく主人公をブラッド・ピットが演じた作品)とどこか似た空気感を感じる。本作では、29歳の姿のまま100年以上生き続けてしまうという数奇な運命に翻弄される一人の美しい主人公アデラインをブレイク・ライブリー演じている。彼女が表現する「美しさ」には注目だ。表向きの29歳としてのエレガントな美しさに加え、100歳としての経験と知性が醸し出す落ち着いた美しさも感じさせ、深みのある「美しさ」を表現している。

 

“All these years, you’ve lived but you never had a life.”
「もうこの辺で失われた人生を取り戻せ。」

 

太古の昔より人類が追い求め続ける永遠の夢、少年漫画に登場する悪役のほとんどが抱く野望、「不老不死」。本作は、そんな夢のような体を手に入れてしまった一人の女性の物語だ。時間の経過に影響を受けない体は、一見羨ましいように思えるが、決してそんなことは無いということを本作は示してくれる。世界を征服する力も無ければ、魔法も使えない、一人の生身の人間が背負うとき、「不老不死」という人類の夢は「呪い」と化してしまう。

 

仏教に「生老病死(しょうろうびょうし)」という言葉がある。人間が人生で避けることができない4つの根源的な苦しみを意味する言葉だ。老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみは予想できるが、何より先に「生きる苦しみ」があるということを、お釈迦様は説かれている。永遠に生きるということの負の一面、自分だけ立ち止まる恐怖、喪失と向き合い続ける恐怖、アデラインがこれらの恐怖と向き合っていることが、本作で見せる哀愁の表情に表れている。人生(人が生きるということ)の価値は有限の中にあるように思う。限りある命だからこそ、人は精一杯生きるのだ。

 

“Adaline, you okay?”
「アデライン、大丈夫か?」

“Yes, perfect.”
「ええ、完璧よ。」

 

生きる苦しみについては、実はほとんどの人がすでに認識していることなのではないだろうか。病む苦しみ、死ぬ苦しみは言わずもがなだろう。そうすると、不思議なことに、「老いる苦しみ」には幸福な一面もあるように思えてくる。「年は取りたくないねぇ~」という意見もあるが、誰かと共に老いる幸せを感じながら年を取れるなら、これほどの幸福はない。本作のラストでアデラインの身に再び起きる奇跡、一般的には嫌なことと捉えられがちだが、アデラインにとってそれは“perfect”なのだ。

 

生きることの負の一面、老いることの幸福な一面、物事は捉え方次第だ。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『シン・ウルトラマン』を観て。

シン・ウルトラマン』 2022
【監督】樋口 真嗣
【企画・脚本】庵野 秀明

 

 

「あれがウルトラマン・・・キレイ。」

 

突如、巨大不明生物が出現するようになった日本。「禍威獣(カイジュウ)」と呼称されるようになったこれらの生物により日本は甚大な被害に立ち向かうことを余儀なくされる。政府はこの未曾有の事態に対処するべく、防災庁の下に特別専従班、禍特対(カトクタイ、禍威獣特設対策室)を設置し、自衛隊と協力し対処にあたるようになる。
今日も突如出現した禍威獣「ネロンガ」を駆除するべく出動した禍特対。暴れまわるネロンガ、その目と鼻の先にある集落に逃げ遅れた子供がいることに気付いた禍特対班員の神永(斎藤工)は自ら救助に走る。ちょうど時を同じくして、空から“何か”が飛来する。土煙が晴れ、姿を現したのは、銀色の巨人だった。

 

「河岸(かし)を変えよう。」

 

1966年に放送されていたTVシリーズウルトラマン」のリブート作。タイトルの頭にある「シン」の文字から、本作が庵野秀明さんの肝いりであることは、ちょっと映画を観る人であれば容易に想像がつくことだろう。ただ、単純なリメイク作品にはしないという姿勢は『シン・ゴジラ』(2016)でも示されている通り、本作も庵野さん・樋口さんタッグの「こだわり」、「らしさ」、特撮(特殊撮影技術の略)への「愛」、オリジナルへの「リスペクト」がふんだんに盛り込まれ、独特の世界観が築かれていた。

 

読み方は同じまま、「怪獣」は「禍威獣」へと字を変え、「科特隊(科学特別捜査隊)」は「禍特対(禍威獣特設対策室)」へと名前を変え、現代の日本で禍威獣や外星人の存在が当たり前になった「奇妙な世界」が描かれる。マスクの常時着用が当たり前になったのとは比べ物にならないほどの非日常は正に「空想」、究極のフィクション(虚構)である。そこから香ってくる作品の独特な雰囲気、異様さ、不気味さ、そして可笑しさがクセになる一作である。

 

「賢(さか)しい選択だ。」

 

ウルトラマン」と聞いて、子供向き/男の子向きのイメージを拭いきれず、本作を敬遠してしまっている人がいたら、もったいない。もちろん、ウルトラマンに対する思い入れの度合いに左右される作品であることは間違いないが、ストーリー(脚本)、映像(不思議なカメラアングルやCG)、演出、どれをとってもエンターテイメント作品としてレベルの高い作品に仕上がっている。むしろ、本作で初めてウルトラマンを知る人が羨ましいとすら感じる。

 

自分にとって本作は、まるで昔仲が良かった親友と久々に再会した気持ちになれる作品だった(はい、そうです、私は思い入れがある側の人間です)。長いこと忘れていた、「そうだ、自分は子供の頃、ウルトラマンが大好きだったじゃないか」と、童心が甦ってきた。小さいころ、「ウルトラマンごっこ」と称して父親と何回も闘ったし、家には何種類ものウルトラマンと怪獣のソフビ人形があった。中でも、本作とデザインが同じ、シンプルなフォルムに赤と銀の模様が入った初代ウルトラマンが一番のお気に入りで、いつも握りしめていた。私はウルトラマンで育ったのだ。

 

「あえて狭間にいるからこそ見えることがある。そう信じてここにいる。」

 

久々に再開した親友(ウルトラマン)について、この映画がきっかけで新たに知ったことがあった。それは、彼の生い立ちについて。そもそも、ウルトラマンは誰が作ったのか?特撮の神様・円谷英二さんの名前を何となく予測していたが、疑問に掻き立てられ調べる中で辿り着いた、成田亨さんというデザイナー・彫刻家の名前と、彼が描いた「真実と正義と美の化身」という油彩画。本作において庵野さんと樋口さんが目指したデザインコンセプトが正に、この油彩画に描かれた “真”のウルトラマンの姿だったとのこと。

 

絵の中のウルトラマンは、絵のタイトルをそのまま具現化したような、勇ましさと美しさを湛えた姿で構えている。原点回帰、生みの親である成田さんが望んだ本来の姿、その洗練されたウルトラマンが本作ではCGで再現され、拝むことができる。1966年当時はできなかったことを、今だから実現できることを、今こそやる。なぜ本作のウルトラマンにはカラータイマー(活動限界が近づくと点滅する胸のランプ)が無いのか。その答えは、成田亨さんの想いを知り、「真実と正義と美の化身」を見れば納得がいく。微笑んでいるようにも見えるその姿は神々しくて、美しい。ウルトラマンの本名は「真実と正義と美の化身」だったのだ。

 

ウルトラマン、そんなに人間が好きになったのか。」

 

本作には地球外からの視点(ウルトラマンを含む外星人)から見えてくるテーマがある。それは「人間とは何か?」、「救うに値するのか?」という問いである。禍威獣はあくまで兵器、本当に恐い存在は知恵と科学力を備えた外星人であり、彼らはありとあらゆる思惑を持って人間に接触してくる。滅ぼそうとする者、管理下に置こうとする者、そして守ろうとする者。光の国からの監視者であるウルトラマンは、自らの故郷の掟を破ってでも、人間と外星人の狭間で奮闘し、人間の味方になってくれる。なぜなのだろうか?

 

人間の価値とは何か?それは、群れの中で生きる我々人間が「勇気と知恵と生命力」を兼ね備えながらも、痛みや死を受け入れており、且つ他者のために行動できる「自己犠牲」の精神を備えているからである。そんな生物としての魅力を目撃したウルトラマンは、未熟でも尊い可能性を秘めた人間を、これまた「自己犠牲」の精神で助けてくれるのだ。我々はウルトラマンに愛され続ける存在であらねばならないと思う。

 

「人は誰かの世話になり続けて生きている社会性の動物なのよ。」

 

ウルトラマンになりたい」と思っていた時期が、確かにあった。子供心に憧れた、強くて、優しい、正義の味方。誰かのために闘ってくれる、弱いものを守ってくれる、普遍的なカッコ良さをまとった、美しくて完璧な存在。よく考えたら、これは今でも自分が理想とする「人」のあるべき姿かもしれない。

 

ウルトラマンのようになりたい、私の好きな言葉です。
※本作のMVPは、メフィラス星人を演じた山本耕史さんのきな臭い演技(褒めてるんです)と名セリフで決定でしょう。

 

シュワッチ!!

 

 

さて、次は何観ようかな。

『世界一キライなあなたに』を観て。

世界一キライなあなたに』 2016
【原題】Me Before You
【監督】テア・シャーロック(Thea Sharrock)

 

 

"You only get one life. It's actually your duty to live it as fully as possible."
「一度の人生。精一杯生きるのが人の務めだ。」

 

イギリスの田舎町に住むルー(エミリア・クラーク)は、働いていたカフェの閉店に伴い新たな職を探す必要に迫られる。やっと見つけた仕事は、交通事故で四肢麻痺になり車いす生活を余儀なくされた元青年実業家ウィル・トレイナー(サム・クラフリン)の介護と話し相手になるというものだった。契約期間は6か月、生きる希望を失い、心を閉ざしたウィルに生きる気力を取り戻してもらえるよう、ルーは持ち前の明るさを武器に奮闘する。

 

"I just want to be a man who has been to a concert with a girl in a red dress. Just a few minutes more."
「赤いドレスの女の子とコンサートに行った男でいたいんだ。もう少しの間だけ。」

 

本作は自分が知る限り、観る前の予想を最も覆された一作である。一見、美女とイケメンが、嫌い同士から徐々に距離を縮め恋に落ちる純愛を描いているように想像させられる邦題とDVDのパッケージだが、そんな予想とは裏腹に、作品が扱うテーマは重たく、複雑だ。皆さんは「自殺幇助(ほうじょ)」という言葉をご存じだろうか。辞書には「別の人、時には医師の助けを借りた自殺」と説明がある。聞き慣れない言葉だが、海外には実際に裁判所や医師と連携したうえで自殺幇助を提供する団体が存在する。

 

「愛の力は人を絶望の淵から救うことができるのか」、本作が問いかける難題である。重たいテーマを担ってはいるが、不思議と作風は明るく、温もりがある。主人公ルーの底抜けの天真爛漫さ、健気で献身的な姿が作品全体の雰囲気を明るく支配している。そんな彼女と出会う、生きることに絶望したもう一人の主人公ウィル、彼の中で変わっていくところと、変わらないところ。これが本作の最大の見どころであり、我々への問いかけだろう。物語の行く末と共に、是非本作を観て、この難題に向き合ってみてほしい。

 

"I get that this could be a good life. But it's not my life. It's not even close."
「きっといい人生になると思う。でもそれは違いすぎる。僕の人生じゃない。」

 

正直、こんなに躊躇いながら文章を書いたことはない。触れるべきか迷ったが、ただ、どうしても今、この瞬間に抱いている想いが消えないうちに、起きてしまった出来事と向き合いたいと思う。2022年5月11日、お笑いタレントであるダチョウ倶楽部の上島竜平さんが、自殺された。著名人の自殺が後を絶たない中で、この人の訃報には大きな喪失感を覚えた。「絶対押すなよ~!」、「じゃあ、俺がやるよ。・・・どうぞどうぞどうぞ。」、「くるりんぱっ!」、生前の元気な姿を思い出すと、「あの人はもうこの世にはいないんだなぁ・・・」と寂しさが込み上げてくる。

 

以前、誰かが書いた何かの記事で次のような言葉を読んだことがある(何もかも曖昧ですいません)。

「人は誰かの役に立っていると感じるとき、生きている喜びを感じる。逆に、人は他人に迷惑をかけてまで生きたくないと思ってしまう。」

「人様に迷惑をかけるな」と教育されている人が多いせいか、日本人は他人に迷惑をかけてしまうことに弱い。また、集団生活の中で「自分は何の役にも立っていない」と卑屈になってしまう人も多いように思う。この「後ろめたさ」が個人の内面に隠れてしまった時、周囲の人が予期せぬ悲しい決断が下されてしまうのかもしれない。

 

でも、「迷惑をかけている」ではなく「頼っている」と言い換えることができたなら。誰かに助けてもらう自分を受け入れられたなら。「迷惑をかけてしまったな」で終わらないために「ごめん」と「ありがとう」が言えたなら。そして、持ちつ持たれつ、助け合いながら乗り切るのが人間なんだから、世の中には「助けられる人」も必要なのだと思えたなら。他人も、自分も、受けいれて、愛してあげないといけない。

 

"You can't change who people are."
「他人を変えることはできないんだ。」

"Then what can you do?"
「じゃあどうすればいい?」

"You love them."
「愛することだ。」

 

「本当に好きな芸人、好きな後輩が、一番嫌いな死に方をした」。上島さんの自殺に対しての明石家さんまさんのコメントが胸に刺さった。どれほど苦しんでいたかがわからない以上、生きてほしかったと願うのは他人のエゴかもしれない。でもやっぱり、どんな理由があったとしても、この死に方はキライだ。

 

 

難しい。本当に、難しい。

『ジュリエットからの手紙』を観て。

ジュリエットからの手紙2010
【原題】Letters to Juliet
【監督】ゲイリー・ウィニック(Gary Winick)

 

 

“You’re all Juliet?”
「皆さんがジュリエット?」

“Her secretaries.”
「ジュリエットの秘書なの。」

 

ソフィ(アマンダ・セイフライド)は婚約者と訪れたイタリア・ヴェローナで「ジュリエットの家」に立ち寄る。そこは世界中から集まる観光客がジュリエット宛に恋の悩みを手紙に綴り、家の壁に貼り付ける場所として有名な観光名所だった。貼り付けられた手紙一通一通に対して丁寧に返事が書かれていることを知ったソフィは、レンガの隙間に隠されていた50年前の手紙を偶然見つけ、その手紙に返事を書くことになる。クレア(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)というイギリス人女性が書いたその手紙への返信により、50年の時を越えて実らなかったロマンスが再び動き出す。

 

“Life is the messy bits.”
「人生は苦労そのものよ。」

 

イギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピアの名作戯曲『ロミオとジュリエット』の舞台となったイタリア・ヴェローナ、そこに実在する恋愛成就の観光名所として知られる「ジュリエットの家」を起点に展開する本作。この場所では実際に「ジュリエットに手紙を書くと、秘書が返事を書いてくれる」という、なんともロマンチックな慣習が受け継がれている(ジュリエットの秘書は全員ボランティアらしい)。

 

物語は主人公のソフィがたまたま見つけた50年前の手紙に、「ジュリエットの秘書」として返事を書いたことから動き出す。50年越しに手紙の返事を受け取り、居ても立っても居られなくなり、イギリスから孫息子のチャーリー(クリストファー・イーガン)を連れてイタリアにやってくるのが本作のもう一人の主人公クレアだ。アマンダ・セイフライドヴァネッサ・レッドグレイヴが演じる2人の恋する乙女がとにかくキュートでチャーミング、2人の名女優の活き活きとした魅力がふんだんに盛り込まれた作品になっている(特にヴァネッサ・レッドグレイヴ、当時73歳とは思えないほど美しい)。

 

“One of the great joys in life is having one’s hair brushed.”
「髪をといてもらうのは人生の喜びのひとつよね。」

 

人生には時として、誰かに背中を押してもらうことが必要な瞬間があるように思う。躓(つまづ)いたとき、立ち止まってしまった時、一人で悩んでいても二進(にっち)も三進(さっち)もいかない時は誰にでもある。そんなと状況を打開できるのは、一人で悩み抜くことよりも、踏み出せない一歩を後押ししてくれる他者からのアドバイスや助言だったりするのではないか。本作でソフィが「ジュリエットの秘書」としてクレアに宛てた「手紙」は正にそんな勇気を生む後押しとなりクレアの人生を大きく変えることになる。物語の終盤に読み上げられるこの手紙、その素敵な言葉は、きっと本作を観る人の背中も押してくれるだろう。

 

“What if?”
「もしあの時。」

 

「もしもあの時・・・」って思ってしまうこと、時々あるよね。でもそんな時、「まだ遅くないよ」、「勇気出して」と言ってくれる人って、ありがたいよね。誰しもがお持ちであろう人生の“What if?”を考えさせられる、微笑ましい一作です。

 

 

さて、次は何観ようかな。