映画を観て、想うこと。

『スモーク』を観て。

スモーク Smoke, 1995
監督ウェイン・ワン(Wayne Wang)

 

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“They’re all the same, but each one is different from every other one.”
「全部同じ写真、でも一枚一枚が全部違うんだ。」

 

ニューヨーク、ブルックリンの街角で煙草屋を営むオーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)、彼の日課は毎日同じ時間、同じ場所で写真を撮ること。同じ景色、同じ建物を被写体に10年以上続けているこのライフワークで撮り溜めた写真は4千枚にのぼる。全て同じに見える写真は、四季の移り変わり、行き交う人々、陽が射す角度など、一日として同じ日がないように、一枚として同じものはない。この煙草屋の店主を起点に、様々な人間関係が繋がり、彼らの人間模様が綴られる。

 

“Well that’s what people see. That ain’t necessarily what I am.”
「傍目(はため)にはそう見えるだるうが、傍目じゃ人間はわからんだろ。」

 

タイトルの通り、登場人物たちが美味そうにタバコを吸うシーンが印象的な本作は、決して派手な展開や演出がある映画ではないが、深く、渋い魅力に溢れる一本だ。言葉で表現するのが難しいが、「いい映画を観たな~」と得した気分になる、そんな作品だ。ブラックコーヒーを初めておいしいと感じた時の感覚に似ているかもしれない(あくまで個人の感想です)。

 

この映画がテーマとするのは「嘘」。嘘と聞くと、我々はどうしても悪いイメージを抱いてしまう。「嘘つきは泥棒の始まり」や「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」など、小さいころ親から口酸っぱく言われた人も多いと思う。我が子を全う(まっとう)な人間に育てるための親心だったのだと思うが、一方、「嘘も方便」ということわざもある通り、どうも世の中の嘘全てが悪である訳でもないらしい。思うに、嘘は大きく分けて2種類あると思う:人を騙したり傷つけたりするためにつく「悪い嘘」と、自分や他人を救うべく事実をぼかすためにつく「良い嘘」だ。本作には後者の「良い嘘」がたくさん登場する。

 

本作の登場人物たちは、それぞれが人生において葛藤を抱えており、それぞれの思惑で嘘をつく。煙草屋の常連でオーギーの写真の中に亡き妻の姿を見つけるポール(ウィリアム・ハート)、ポールを事故から間一髪で救うラシード(ハロルド・ペリノー)、ラシードがバイトすることになった自動車修理工場のサイラス・コール(フォレスト・ウィテカー)、突如煙草屋を訪れたオーギーの元恋人のルビー(ストッカード・チャニング)。彼らが織りなす群像劇はタバコの煙のように、どこかおぼろげで味わい深い人間臭さがある。

 

“You’ll never get if you don’t slow down my friend.”
「急いてちゃ、わかりゃしないよ。」

 

本作にはもう1種類「良い嘘」が登場する。それは、作中で登場人物たちが語る物語(フィクション)だ。物語は究極の「良い嘘」である。「こんな話聞いたことある?」と、不意に語られる物語は、不思議で、洒落ていて、かっこいい。「煙草の煙の重さを計る話」、「自分より若い父親と再会する話」、「自分の原稿を煙草にしてしまった作家の話」、「神様に手を鉤(かぎ)に変えられた男の話」、そして本作のラストを飾るのが「オーギー・レンのクリスマスストーリー」。オーギーがなぜ写真を撮るようになったのか、彼の口から語られるこの物語は何ともいえない香りを心に残してくれる。

 

“If you can’t share your secrets with your friends, then what kind of friend are you?”
「秘密を打ち明けられない友達なんて、友達と言えないだろ?」

 

雪も降らない。クリスマスソングも流れない。街は煌(きら)びやかなイルミネーションに溢れてはいない。でも、本作は素敵なクリスマス映画である。

今日はクリスマス。皆さま、素敵なクリスマスをお過ごしください。

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さて、次は何観ようかな。