映画を観て、想うこと。

『最後の決闘裁判』を観て。

最後の決闘裁判2021
【原題】The Last Duel
【監督】リドリー・スコット(Ridley Scott)

 

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“I am telling the truth.”
「すべて真実です。」

“The truth does not matter.”
「真実など重要ではないのよ。」

 

中世(14世紀)フランス、騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)の妻マルグリット(ジョディ・カマー)は、夫の親友であるジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)に性的暴行を受けたと告発する。怒り狂ったカルージュは処刑を求刑するも、無罪を主張するル・グリと、彼の側についた領主ピエール伯(ベン・アフレック)の画策により、裁判による追及は行き詰ってしまう。追い込まれたカルージュは国王シャルル6世(アレックス・ロウザー)に直談判し、真実の行方は“決闘裁判”に委ねられることとなる。

 

"There's no right. There is only the power of men."
「権利などないのよ。あるのは"男の権力"だけ。」

 

本作の監督である巨匠リドリー・スコット、彼が手掛ける歴史映画が好きだ。美しい映像と、時代に翻弄されるキャラクターの捉え方が絶妙で、作品は常に重厚な雰囲気を纏(まと)っている。帝政ローマ時代中期の剣闘士を描いた『グラディエーター』(2000年)、旧約聖書出エジプト記を映像化した『エクソダス:神と王』(2014年)、そして本作と、歴史×リドリー・スコットの方程式に当てはまる作品には特有の「重み」がある。本作も御多分に漏れず、いやテーマ的にはこれまでの作品以上に重みのある一作となっている。

 

本作は史実に基づく法廷スキャンダルを映画化した一作である。タイトルにもある決闘裁判とは、訴える側と訴えられた側の両当事者が決闘を行って判決を決めるゲルマン法の一つの方式で、実際にヨーロッパで制度化されていたものらしい。要は「もうどっちが正しいかわからないからさ、闘って決めてよ。死んだ方が有罪ね。」という何ともめちゃくちゃな裁判方式だ。「正しき者を神が見捨てるはずがないでしょ」という、今では考えられない理屈だが、それだけ昔の人にとって神という存在が絶対的であり、真実が明らかにならない場合に辿り着いた一つの答えの出し方なのだろう。負けた者が辿る残酷な末路もしっかりと描かれており、本作には歴史を知るための教材という一面もある。

 

"God will spare those who tell the truth. And the truth will prevail."
「神は真実を語る者を守られる。真実は決して負けません。」

 

本作は「三つの章」と「最後の決闘」の4幕で構成されている。第一章から第三章は主要登場人物であるカルージュ、ル・グリ、マルグリット、3人それぞれの視点で一連の出来事が描かれる。興味深いのは視点が変わると、起きた物事の捉え方が微妙に変わってくるということだ。大きくは変わらない、ただ、真実が「捻じ曲がっていく」感覚を覚える。また、視点が変わることで徐々に浮かび上がっていく人間模様にも引き込まれていく。観ている側は「あれ?そうだっけ?」、「え?そうだったの?」と、どんどん定かでなくなっていくのに、どんどん物語に引き込まれていってしまう。結果、何が本当に起きたのかはわからないまま、最後は「決闘による決着」という一つの事実が突き付けられる物語の構成となっている。

 

“You are blinded by your vanity.”
「あなたは虚栄心ですべてを見失っているわ。」

 

「真実」が3回語られる斬新なプロットの中で、やはりカギとなるのは第三章「マルグリットの真実」だろう。男→男→女と視点が移り、最後に語られる被害者の視点、女性が性暴力を受けても泣き寝入りするしかなかった時代に、命を懸けて真実を述べたマルグリットの悲しみ、恐怖、怒り、覚悟がひしひしと伝わってくる章であり、映画の核心に迫る章である。乱暴された女性の視点が捉えた一連の事象を目の当たりにすると、この時代に生きた女性がいかに過酷な現実に直面していたかを思い知らされる。作中、マルグリットが裁判官から厳しい尋問を受けるシーンがある。現代では考えられない理屈が語られ、それを科学的事実と説明される実情には開いた口が塞がらず、呆れて涙が出そうになる。性的暴行という卑劣な暴力の有無を見定める裁判の決着を、決闘というこれまた暴力でしか解決できない事実と、自らの虚栄心を守るために命を懸けて戦う男たち、そしてその行く末を歓喜して見守る権力者と民衆の様子に、何とも言えない虚しさを覚える。

 

主観がいかに事実を捻じ曲げるかが巧妙に描かれた本作を観終わった後、しみじみと考えさせられた。現代に伝わっている歴史にはどれほど「彼女たち」の真実が汲み取られているのだろう。強かったものが語った捻じ曲がった真実が、事実になり、史実になっている可能性は高い。そうなると必然的に我々が認識している歴史上のありとあらゆることが、男、権力者、多勢、そして神/神話にとっての真実なのではないか。本文を書いていて、「真実」という言葉がこれほどまでにあやふやで、何も確固たるものを示さないものなのだと気づき、驚いてしまった。何事も「鵜呑み」にするのは危険なことである。

 

“I say before all of you, I spoke the truth.”
「皆さんに申し上げます、私は真実を述べました。」

 

名探偵〇ナンの決め台詞にケチをつけることになってしまうが、「真実」はいつも一つではないように思う。実際に起こった「事実」は一つ、でも「真実」は人の数だけ散らばっているものなのかもしれない。人は自分にとって都合がいいように物事を捉えがちであり、主観や思い込みの入った人それぞれの噓偽りなき「真実」が存在することを忘れてはならない。

 

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さて、次は何観ようかな。