映画を観て、想うこと。

『シン・ウルトラマン』を観て。

シン・ウルトラマン』 2022
【監督】樋口 真嗣
【企画・脚本】庵野 秀明

 

 

「あれがウルトラマン・・・キレイ。」

 

突如、巨大不明生物が出現するようになった日本。「禍威獣(カイジュウ)」と呼称されるようになったこれらの生物により日本は甚大な被害に立ち向かうことを余儀なくされる。政府はこの未曾有の事態に対処するべく、防災庁の下に特別専従班、禍特対(カトクタイ、禍威獣特設対策室)を設置し、自衛隊と協力し対処にあたるようになる。
今日も突如出現した禍威獣「ネロンガ」を駆除するべく出動した禍特対。暴れまわるネロンガ、その目と鼻の先にある集落に逃げ遅れた子供がいることに気付いた禍特対班員の神永(斎藤工)は自ら救助に走る。ちょうど時を同じくして、空から“何か”が飛来する。土煙が晴れ、姿を現したのは、銀色の巨人だった。

 

「河岸(かし)を変えよう。」

 

1966年に放送されていたTVシリーズウルトラマン」のリブート作。タイトルの頭にある「シン」の文字から、本作が庵野秀明さんの肝いりであることは、ちょっと映画を観る人であれば容易に想像がつくことだろう。ただ、単純なリメイク作品にはしないという姿勢は『シン・ゴジラ』(2016)でも示されている通り、本作も庵野さん・樋口さんタッグの「こだわり」、「らしさ」、特撮(特殊撮影技術の略)への「愛」、オリジナルへの「リスペクト」がふんだんに盛り込まれ、独特の世界観が築かれていた。

 

読み方は同じまま、「怪獣」は「禍威獣」へと字を変え、「科特隊(科学特別捜査隊)」は「禍特対(禍威獣特設対策室)」へと名前を変え、現代の日本で禍威獣や外星人の存在が当たり前になった「奇妙な世界」が描かれる。マスクの常時着用が当たり前になったのとは比べ物にならないほどの非日常は正に「空想」、究極のフィクション(虚構)である。そこから香ってくる作品の独特な雰囲気、異様さ、不気味さ、そして可笑しさがクセになる一作である。

 

「賢(さか)しい選択だ。」

 

ウルトラマン」と聞いて、子供向き/男の子向きのイメージを拭いきれず、本作を敬遠してしまっている人がいたら、もったいない。もちろん、ウルトラマンに対する思い入れの度合いに左右される作品であることは間違いないが、ストーリー(脚本)、映像(不思議なカメラアングルやCG)、演出、どれをとってもエンターテイメント作品としてレベルの高い作品に仕上がっている。むしろ、本作で初めてウルトラマンを知る人が羨ましいとすら感じる。

 

自分にとって本作は、まるで昔仲が良かった親友と久々に再会した気持ちになれる作品だった(はい、そうです、私は思い入れがある側の人間です)。長いこと忘れていた、「そうだ、自分は子供の頃、ウルトラマンが大好きだったじゃないか」と、童心が甦ってきた。小さいころ、「ウルトラマンごっこ」と称して父親と何回も闘ったし、家には何種類ものウルトラマンと怪獣のソフビ人形があった。中でも、本作とデザインが同じ、シンプルなフォルムに赤と銀の模様が入った初代ウルトラマンが一番のお気に入りで、いつも握りしめていた。私はウルトラマンで育ったのだ。

 

「あえて狭間にいるからこそ見えることがある。そう信じてここにいる。」

 

久々に再開した親友(ウルトラマン)について、この映画がきっかけで新たに知ったことがあった。それは、彼の生い立ちについて。そもそも、ウルトラマンは誰が作ったのか?特撮の神様・円谷英二さんの名前を何となく予測していたが、疑問に掻き立てられ調べる中で辿り着いた、成田亨さんというデザイナー・彫刻家の名前と、彼が描いた「真実と正義と美の化身」という油彩画。本作において庵野さんと樋口さんが目指したデザインコンセプトが正に、この油彩画に描かれた “真”のウルトラマンの姿だったとのこと。

 

絵の中のウルトラマンは、絵のタイトルをそのまま具現化したような、勇ましさと美しさを湛えた姿で構えている。原点回帰、生みの親である成田さんが望んだ本来の姿、その洗練されたウルトラマンが本作ではCGで再現され、拝むことができる。1966年当時はできなかったことを、今だから実現できることを、今こそやる。なぜ本作のウルトラマンにはカラータイマー(活動限界が近づくと点滅する胸のランプ)が無いのか。その答えは、成田亨さんの想いを知り、「真実と正義と美の化身」を見れば納得がいく。微笑んでいるようにも見えるその姿は神々しくて、美しい。ウルトラマンの本名は「真実と正義と美の化身」だったのだ。

 

ウルトラマン、そんなに人間が好きになったのか。」

 

本作には地球外からの視点(ウルトラマンを含む外星人)から見えてくるテーマがある。それは「人間とは何か?」、「救うに値するのか?」という問いである。禍威獣はあくまで兵器、本当に恐い存在は知恵と科学力を備えた外星人であり、彼らはありとあらゆる思惑を持って人間に接触してくる。滅ぼそうとする者、管理下に置こうとする者、そして守ろうとする者。光の国からの監視者であるウルトラマンは、自らの故郷の掟を破ってでも、人間と外星人の狭間で奮闘し、人間の味方になってくれる。なぜなのだろうか?

 

人間の価値とは何か?それは、群れの中で生きる我々人間が「勇気と知恵と生命力」を兼ね備えながらも、痛みや死を受け入れており、且つ他者のために行動できる「自己犠牲」の精神を備えているからである。そんな生物としての魅力を目撃したウルトラマンは、未熟でも尊い可能性を秘めた人間を、これまた「自己犠牲」の精神で助けてくれるのだ。我々はウルトラマンに愛され続ける存在であらねばならないと思う。

 

「人は誰かの世話になり続けて生きている社会性の動物なのよ。」

 

ウルトラマンになりたい」と思っていた時期が、確かにあった。子供心に憧れた、強くて、優しい、正義の味方。誰かのために闘ってくれる、弱いものを守ってくれる、普遍的なカッコ良さをまとった、美しくて完璧な存在。よく考えたら、これは今でも自分が理想とする「人」のあるべき姿かもしれない。

 

ウルトラマンのようになりたい、私の好きな言葉です。
※本作のMVPは、メフィラス星人を演じた山本耕史さんのきな臭い演技(褒めてるんです)と名セリフで決定でしょう。

 

シュワッチ!!

 

 

さて、次は何観ようかな。