映画を観て、想うこと。

『少林寺三十六房』を観て。

少林寺三十六房』 1978
【英題】The 36th Chamber of Shaolin
【監督】ラウ・カーリョン劉 家良

 

 

「塀は低いが、いいか、仏法の壁は高いぞ。」

 

明が滅び、清の台頭による圧政が進む広東。反清復明運動に加わる反乱分子を狩る張将軍とその配下の者に父と友人を殺されてしまった裕徳/ユウダ(リュー・チャーフィー)は、復讐を誓い、武術の総本山・少林寺を目指す。自らも追われる身の中、命からがら逃げ延び少林寺に辿り着いた裕徳は、寺での修行が認められ、新たに三徳/サンダの僧名を授かり、寺に設けられた三十五の修行房で鍛錬の日々に励むのだった。

 

「学問をしなきゃ、善悪はわからないさ。」

 

なぜか職場で本作が話題になり(はいそうです、原因は自分です)、同僚の間でDVDを回覧してしまった(何の普及活動なんだか)。「面白かった!」とDVDが返ってくるたびに言われるので、「どんな映画だっけ?」となり、自分も再鑑賞。主人公が復讐のために力を求める王道プロット、成長の過程を「修行」という形で描く正当なカンフー映画、「こりゃ面白いわ!」と再確認できた。

 

主人公のサンダは少林寺に設けられた三十五の房で修行を積み、まるでテレビゲームのステージをクリアしていくような感覚で、次の房へ、次の房へと進む中で新たなことを学びながら強くなっていく。その修行の様子が、実にユニーク。「なんじゃそりゃ(笑)」と思わず吹き出してしまうようなツッコミどころ満載な鍛錬も、物語の終盤、実戦で活きる成果として描かれている。無駄な努力はない。短剣を脇に付けて水桶を運ぶサンダの姿が、亀仙人のもとで重たい甲羅を背負って修行をする悟空と重なった(ドラゴンボールが好きな人は、間違いなく本作も好きなはず)。

 

「習いたい者には誰にでも教えるべきではないでしょうか。」

 

外界と隔絶された寺で受け継がれる少林寺武術は門外不出の代物である。この掟にも、サンダは立ち向かう。学びたい者には教えるべきと考えるサンダの志は意外にも、復讐心に燃える青年とは思えないほど崇高なのである。少林寺には三十五房までしかない。この事実とタイトルとの差異が本作のミソだ。

 

「文武両道」という言葉について、考えさせられた。学問と武芸のどちらにも優れているべきという人としてのあるべき姿を説いた四字熟語だが、「文」と「武」、この2つの両立は不可欠なように思う。違う言葉で「ペンは剣よりも強し」(言論の力は権力や武力より大きな影響力がある)という言葉もあるが、実際は悲しいかな、刀で襲ってくる相手に万年筆で立ち向かうことはできない。一方、「武」は気を大きくし、時に人を暴走させてしまうことがあるから、それを制御する必要も出てくる。自らに降りかかる脅威から身を守るために身に付ける「武」には、それを正しく使うための「文」も必要になる。強いだけではダメ、賢いだけでもダメ、どっちも大事なのだ。

 

「どんなすごい武器があっても、その使い方を知らなければ何の役にも立たない。」

 

色んな事を考えさせられた作品だが、本作のラスト(復讐劇の結末)が個人的には一番のツッコミどころだった。ここまで来たら「赦し(ゆるし)」というメッセージも期待したが・・・まあいっか。

 

 

さて、次は何観ようかな。