映画を観て、想うこと。

『南極料理人』を観て。

南極料理人』 2009
【監督】沖田 修一

 

 

「西村さん、一緒に脱走しない?」

「どこに?死ぬよ?」

 

海上保安庁で勤務する西村くん(堺雅人)は、(同僚の代わりに急遽)南極観測隊に派遣されることになる。西村に課せられた任務は、調理担当として隊員の食事を管理すること。個性豊かな8名による極地での共同生活を、西村は食事の支度を通して支えるべく奮闘する。

 

「西村くん、俺たち気持ちはもう完全にエビフライだからね。」

 

・・・暑い。最近とにかく暑い。頭上からは刺すような日差しが降り注ぎ、窒息しそうになる湿気と熱気があたりに充満し、足元からは熱を吸ったアスファルトからの照り返しが這い上がってくる。最近ではこの暑さを「猛暑」ではなく「酷暑」と表現するらしい。そんな今年の夏を乗り切るためには、観ただけで凍えそうになるような映画を観賞するしかないと、選んだのが本作だった。

 

ウイルスすら生息できないほどの極寒地に送り込まれた8人の男たちの日常を、調理担当の視点からコミカルに描いた本作には、意外な副産物がついてきた。出てくる料理が、隊員たちが食事をする姿が、とにかく美味そうなのだ。食欲も減退する今の季節にこそ観るべき1作である。

 

「西村くん、ボクの体はね、ラーメンで出来てるんだよ。」

 

一人の人間が1年に飲み食いする量はおよそ1トン弱らしい。8人分、8トンの食糧を南極で管理する、一歩間違えれば命取りになりかねない責任重大な任務を命じられた日には・・・ちょっと寒気がしてきた(効果覿面(てきめん)である)。そんな中、やはり登場するのが「盗み食い」する人。調理担当の身になれば、調理場と冷蔵庫にはカギをつけたい気持ちになりそうなものだが、盗み食いに走るような極限状態の人々に更なる管理、抑圧を強いるとどうなってしまうのか。彼らの狂気を想像すると・・・ゾッとしてくる(勝手に想像しているだけで、そんな要素は微塵もない映画なのでご安心を)。人を追い詰め過ぎるのにはくれぐれも注意したいものだ。

 

「西村くん、お腹空いたよ。」

 

同じ釜の飯を食うクセの強い8名の隊員をまとめていたのは、(きたろうさん演じるタイチョーではなく)やはり堺雅人さん演じる調理担当の西村くんだった。観測隊のお母さん的存在として食事の支度をしたり、隊員の食事中の姿勢を正したりするシーンから、隊内に調和を生んでいるのが彼の真心(まごころ)であると感じる。彼が作る料理のレパートリーの幅広さにも注目してほしい。よく考えたら、日本人ほど世界中の料理を食文化に取り入れている人々は珍しいように思う。

 

食べることは人の心身に大きな影響がある、大切な営みなのだなと気付かされる。自分が食べなくても、人が食べているのを見るだけでも、いや、人が食べているのを「聞いて」いるだけでも幸福感が増す。ラーメンをすする音(ズルズル)、おにぎりを頬張る音(ハフハフ)、エビフライにかぶりつく音(サクサク)、フレンチのコースを堪能する音(皿にナイフとフォークがあたるカチャカチャ)、心地よい音たちの数々、料理を音で楽しめる1作でもある。

 

「美味しいもの食べると元気が出るでしょ?」

 

暑さも吹き飛ばし、食欲も旺盛になり、何だかほっこりした気持ちにしてくれる、「夏に観たい1本」である。

 

 

さて、次は何観ようかな。

拝啓、仕事と子育てに奮闘するあなたへ。

入梅の候、相変わらず慌ただしい日常をお過ごしのことと思います。日頃より仕事だけでなく、子育てにも奮闘するあなたに向けて、どうしても敬意を表したく、一筆認めさせていただきました。

 

「充実している」という表現では到底片づけられないほど、あなたは日々のタスクをこなすことに追われ、それでも何とか一日一日を進み続けていると拝察いたします。時には、急な家庭の都合で仕事を早く切り上げざるを得ない日や、残ってしまった仕事のタスクを処理するために休日の時間を割かなければならない日もあるのではないでしょうか。

 

あなたはこの文章をどこで読まれているのでしょう。朝お子さんを保育園に送った後の通勤電車の中、仕事の昼休み、急いでお迎えに向かう電車の中、あるいは一日が終わりクタクタになって一息つくリビングでしょうか。きっとあなたの過ごす目まぐるしい日々には、落ち着いて読書をしたり、映画を観たりする時間は無いのかもしれません。

 

でも、そんなあなたにこそ紹介したい映画があります。『マイ・インターン』という作品です。中々落ち着いて映画を観る余裕を作るのは難しいかもしれませんが、どうか2時間を捻出いただけたら幸いです。後悔はさせません。きっとあなたに必要な時間になると思います。いや、本作は映画を観る余裕が無いあなたにこそ観ていただきたい一本なのです。

 

マイ・インターン』 2015
【原題】The Intern
【監督】ナンシー・マイアーズ(Nancy Meyers)

 

アン・ハサウェイ演じるファッション企業の若きCEOジュールズと、リタイアし妻に先立たれてもなお前向きに生きようとジュールズの企業でシニアインターンとして働き始めるロバート・デ・ニーロ演じるベン、この二人の掛け合いに励まされる一作です。

 

本作には観る人を前向きにしてくれる名セリフがいくつも登場します。中でも、ベンが説く「ハンカチを持ち歩く意味」には唸ってしまいます。利他の精神、誰かのために何かをしてあげたいという心構えは、自分も他人も幸せにします。

 

意識していないと思いますが、あなたはすでにこれを実践しているのではないでしょうか。お子さんのため、家族のため、同僚のため、友達のため、両親のため、気づけていないだけで、あなたは日ごろからあらゆる他者のために行動していると思います。まずはそのことを忘れずに、たまにはご褒美もあげつつ、自分自身を褒めてあげてください。

 

仮に、本作を観賞できたとして、観終わった後、きっとあなたは、「ベンのような人がいてくれたらなぁ」と思うかもしれません。確かに、人生経験豊富で、懐が深く、仕事が出来て、ユーモアのセンスが抜群な紳士は、例えロバート・デ・ニーロでなかったとしても、喉から手が出るほど欲しい人材でしょう。

 

でも、ベンは決して妖精のような存在ではなく、周囲を見渡せば、きっとあなたの周りにもいると思います。ジュールズが本作でしたように、「心を開いて」、「感謝の気持ちを持って」、「頼る」ことで、ベンはあなたの日常にも現れると思います。

 

そして、忘れてはならないのは、あなたの周りの人もあなたと同じく、精神的支柱を求めているということです。あなた自身が誰かのベンになることだってできるということも、忘れないでください。「情けは人のためならず」、善行はきっとあなたに返ってきます。

 

頑張っている人は報われるべき、常日頃そう思っています。もしあなたが「報われていないなぁ」と感じているのであれば、あなたの頑張りを見て、感謝している人が必ずいるということに気付いてほしくて、お手紙を書きました。

いつも本当にありがとうございます。お疲れ様です。

お互い、身体にだけは気を付けて、引き続き頑張っていきましょう。

 

“You’re never wrong to do the right thing.”
「正しい行いは迷わずやれ。」

 

 

敬具

『AIR/エア』を観て。

AIR/エア』 2023
【原題】Air
【監督】ベン・アフレックBen Affleck

 

 

“I don’t want to sign three players. I want to sign one. Him.”
「3人となんか契約したくない。1人でいい。彼だ。」

 

1943年、ナイキはランニングシューズにおける成功とは裏腹に、バスケットボール部門でのシェア獲得に苦戦していた。ライバル社のコンバース(54%)、アディダス(29%)に比べ、ナイキは17%しかシェアを獲得できておらず、バスケ部門は廃止目前の状況だった。そんなバスケ部門のスカウト担当だったソニー・ヴァッカロ(マット・デイモン)は、来季のスポンサー契約選手を決める会議で、3選手に分配されるために確保された予算25万ドルを一人の選手に全額投じることを提案する。その選手とは、ソニーが目を付けた新人、マイケル・ジョーダンだった。

 

“He doesn’t wear the shoe. He is the shoe. The shoe is him.”
「彼が靴を履くんじゃない。彼こそが靴なんだ。靴が彼を象徴するんだ。」

 

エア・ジョーダン”という伝説的スニーカーの誕生秘話を描いた本作は、結末を楽しむ映画というよりは、過程に焦点を当てた作品と言える。マイケル・ジョーダンという誰もが知るバスケット選手、その彼の名前が冠せられ、やがてストリートファッション/カルチャーにまで影響を与えることになる、彼を象徴するバスケットシューズ(バッシュ)が如何にして生まれたのか。よくよく考えれば誰も気にしたことが無かった物語に、ベン・アフレック(本作監督、ナイキ社々長フィル・ナイト役)とマット・デイモンの黄金コンビが挑む。ナイキが負け犬だった時代、マイケル・ジョーダンが無名だった時代の出来事を、その後どうなるかを知る現代の我々が見ているという面白さがたまらない。

 

“A shoe is just a shoe. Until someone steps into it.”
「靴はただの靴だ。誰が履くかに意味があるんだ。」

 

「熱い」映画だった、というのが観た直後の率直な感想だった。本作にマイケル・ジョーダンは登場しない(ちらっと画面の端に写る程度に留まっている)。この物語がフォーカスするのはジョーダンの「周りにいた人々」。あえてジョーダンを隠したことで本作はより熱さが増したように思う。ジョーダンの戦いは本作を観なくても知れるが、周りにいた人々の戦いは違う。彼らにフォーカスしたことで、本作はありきたりなサクセスストーリーとは一味違う熱気を帯びている。

 

なぜ、彼らの生き様を「熱い」と感じたのか。それは、彼らが「根拠のない自信」と、それを信じる「覚悟」を持っていたからだろう。どう転ぶかはわからないけど、信じてみる。こういった姿勢が歴史や文化を作ってきたのだと、自分もこの映画を観て確信できる、そういう映画のように思えた。とはいえ、そう簡単に人の信頼を勝ち取ることはできない。だから説得する、本作の登場人物たちのように、言葉と行動で。

 

"How did you come to that solution?”
「なぜ決断できたんだ?」

"I went for a run."
「走ればわかる。」

 

作品終盤、交渉の最終局面でナイキ社からジョーダン一家に向けたプレゼンは、いつしかソニーからマイケルに向けたスピーチに変わる。この数分のスピーチに込められた熱量に、得も言われぬ高揚感と奮い立つ感覚を覚えた。また、スピーチに合わせて流れるフラッシュバック映像が、ソニーが発する言葉たちに更なる重みを乗せる。彼らにとってはマイケルに待ち受ける未来であり、我々にとってはマイケルが辿ってきた過去でもある。このワンシーンに出会うだけでも、本作を観る価値が十分にある。

 

“You are Michael Jordan, and your story is gonna make us want to fly.”

マイケル・ジョーダン、君の物語は人々を飛び立たせるんだ。」

 

データやエビデンス(根拠)が重んじられ、人がAIに取って代わられようとしている世の中になってしまったが、人の持つ「直感」、「根拠のない自信」、「熱意」といった不確かなものを、甘く見てはいけないように思う。

 

 

さて、次は何観ようかな。

「気付き」と「新たな試み」について、想うこと。

いつも当ブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。映画ブログを始めて4年が経ちました。

 

長く続けていると、変わらずに続けているつもりのことでも、実は少しずつ変化していることがあります。1年に1回、節目に書く「このブログそのものに関する記事」は、その変化に気付かされる良い機会になっています。今回、そんな気付きが2つありました。

 

1つは自分の「映画の観方」が変わってきたということです。最近、ついつい記事を書くことを意識してしまい、なるべく精確に深く物語やセリフを理解しようと努めてしまっています。これ、実は決して良いこととは感じていないのです。変に肩に力が入っているというか、映画を楽しむという本質を忘れてしまっているというか。以前のように手あたり次第に、暇があれば映画を観ることもしなくなり、時には観られる時でも、あえて観ないようにすることもあります。良い作品に、良いと思えるタイミングで出会いたい。そう思うと、疲れている時や、集中できそうにない時には「観ない」という選択肢をとるようになってしまっています。良いんだか、悪いんだか。でも、やっぱり映画は出会い方も大事ですからね。

 

もう1つは「記事の長さ」について。以前は簡潔に自分の「想うこと」をまとめられていたのに、いつの間にか、書きたいことを詰め込み過ぎて、長い記事ばかりになってしまっていました。長いこと自体は悪いことでは無いのですが、結果、本当に言いたいことが薄れてしまったり、隠れてしまったりしているのではないかと心配になります。最近はもっぱら文章を削る作業に時間がかかっています。誰でも書いていそうな内容は極力削ぎ落し、自分にしか描けない内容だけを残し伝えられるようにしたい。そう思ってはいるものの、なかなか「自分を納得させる」のは難しいですね。

 

でも肝心なのは、良い映画を観て、何か想うことがあれば、それを誰かに伝えたいという気持ちを大切にしたいということ。そういう意味で、私にとっては「事実」よりも「感想」の方が大事なのです。映画そのものについて語るというよりも、映画から伝わった「何か」を言語化して伝えたい。これだけは大切にしたいと思っています。

 

さて、5年目に突入するにあたり、新たな試みにも挑戦してみたいと思っています。これまで、当ブログの記事は2種類の「型」で書いてきました(私は割と「型にはまりたい」タイプです)。既存の「観て」シリーズと「想うこと」シリーズ、これに近々、型を1つ追加してみたいなと思っており、絶賛執筆中です。書きながら、実はこれが一番やりたかったことなのではないかなと思っています。自分を追い込むためにも、ここで宣言することで後に引けない状況を作りだしてみました。

 

何はともあれ、映画を観て、自分が想ったことを大切に、そしてそれを人に伝えることで他者の中にも何らかの「想い」が醸成されることを目指して、今後も当ブログの更新を続けていきたいと思っています。よろしければ、引き続きお付き合いくださいませ。

 

さて、次は何観ようかな。

『フェイブルマンズ』を観て。

『フェイブルマンズ』 2022
【原題】The Fabelmans
【監督】スティーヴン・スピルバーグSteven Spielberg

 

 

“Movies are dreams that you never forget.”
「映画は決して忘れることのできない夢よ。」

 

サミー・フェイブルマンは幼少期、両親に連れられて映画館で観た初めての映画『地上最大のショウ』に心を奪われる。特に車と列車が衝突するシーンの衝撃が脳裏に焼き付いて離れなくなった彼は、父バート(ポール・ダノ)にプレゼントしてもらった列車の模型を使い、何度もそのシーンを再現する。見かねた母ミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)はサミーにビデオカメラを渡し、「最後の1回をフィルムに納めれば、何度でも観られる」と提案する。これが、彼が初めて撮影した作品となる。

主人公のサミーのモデルはスティーヴン・スピルバーグ、本作監督が自分自身を描いた一作である。

 

“You can’t just love something. You also have to take care of it.”
「愛するだけではダメだ。大切にしないと。」

 

ジョーズ』、『E.T.』、『ジュラシック・パーク』、『A.I.』、『レディ・プレイヤー1』、生きていれば人は何かしらの形で彼の作品に出会っているはず。映画界のレジェンド、スティーヴン・スピルバーグ監督。そんな彼が、自分自身の思春期を描いたのが本作『フェイブルマンズ』である。「きっと夢と希望に満ちた内容で、映画がどれだけ素晴らしいものかを語る一作になっているはず」と観る前までは思っていたが、甘かった。

 

本作で描かれているのは、映画がもたらす功罪。映画の神様が映画を撮る苦しみ、ある種の「負の一面」に触れている。作る者の都合で真実と嘘が切り張りされ人々の目に届く。その事実は、カメラのファインダーを覗いている人、撮ったフィルムをカット編集している人にしかわからない。映画作りとは、真実を歪めている作業でもあるのだ。捨てるカット、残すカット、そこに写っていたもの、写っていなかったもの、写っていてほしかったもの。良かれと思って作った作品が他人や自分自身を、喜ばせることもあれば、傷つけることもある。「芸術には痛みが伴う」、作中に登場するボリスおじさん(ジャド・ハーシュ)がサミー(スピルバーグ監督)に説くこのセリフに唸ってしまった。

 

“Sticking your head in the mouths of lions was balls. Making sure the lion don’t eat my head, that is art.”
「ライオンの口に頭を突っ込むのは度胸だ。その際、食われないようにする、それこそが芸術だ。」

 

スピルバーグ監督曰く「この映画はたとえ話ではなく、記憶」とのこと。両親の関係、学校でのいじめ、決して平穏な日常ではなかったスピルバーグ監督の人格形成期。自らが撮ったもので傷ついたこともあった。それでも今日のスピルバーグ監督の功績があるのは、初めて映画館で受けた衝撃や恐怖を映画製作の熱に変え、作らずにはいられないという衝動に忠実だったからなのだろう。

 

“Where is the horizon?”
「地平線はどこにある?」

 

本作のラストは見事としか言いようがない。これ以上ないと言えるほどの成功を収めてきた巨匠の自伝的作品の結末が、「これからも精進します」宣言で締めくくられるとは意外だった。シンプルな会話/言葉とカメラワークだけで、こうも強いメッセージとユーモアを伝えられるものなのか。自分自身の物語をサクセスストーリーにはせず、まだまだ継続中であると語る、どこまでも流石です。

 

彼のこれまでの作品にも、これからの作品にも、きっと「面白い地平線」は隠れているに違いない。

 

 

さて、次は何観ようかな。