映画を観て、想うこと。

『開戦前夜』を観て。

『開戦前夜』 2026
【監督】石井 裕也

 

 

「俺は愚かでした。この戦争を本気でやれると信じる人間がいるんですね!?」

 

1941年(昭和16年)4月、太平洋戦争における日米開戦から遡ること8か月前、官僚・軍人・民間から選りすぐりのエリートたちが集められた。目的は、模擬内閣を結成し、アメリカおよび諸外国との戦争をシュミレーションすること。「総力戦研究所」と名付けられたこの組織は、民間から選出された宇治田洋一(池松壮亮)を内閣総理大臣に据え、アメリカと戦争をするべきかを議論するのであった。

 

「この戦争、日本は必ず敗けますよ。しかも、ただの負けではありません。今、この頭の中には「ある」光景が浮かんでいます。国が破滅するほどの敗北です。」

 

この時代を扱った映画は、いつ観ても独特な鬱屈とした雰囲気で覆われているように感じる。当然、愚かな戦争に突き進み、多くの犠牲者を出したうえに大敗した歴史を描く以上、この時代の物語を語るうえでこの雰囲気は必然なのかもしれない。この作品からも、その雰囲気は誠実に再現されていたように思う。軍人の口から出る「恥ずかしくないのか!」という根性論、「日本には大和魂がある!」という呪(まじな)い、「戦争はやってみないとわからない」という狂気じみたセリフたちの前では、反論する気すら失せてしまう。

 

「軍服を作ったから戦争するんですか?」

 

我々はつい「いったい誰が悪かったのか」という観点で犯人探しをしてしまう。あの戦争は、食い止められなかったエリートたちのせいか、無責任な舵取りをした挙句に匙を投げた近衛内閣のせいか、戦争に踏み切った東條内閣のせいか、被害者意識から戦争を煽った国民のせいか、あるいは、それを焚きつけた陸軍やメディアのせいか。何事も「10-0で誰かが100%悪い」なんてことはあり得ない。責任はだれか一人に/何か一つの事象に擦り付けられるものではないと思う。

 

「一度動き出した空気に抗うのは、至難の業です。」

 

そうはいっても、やはり大きな要因だったのが「同調圧力」と「空気」だったと知り、愕然とする。「そんなことで!?」と思うかもしれないが、優秀なエリートたちでも、歴戦の軍人でも、引くに引けなくなったら何と弱いことか。これは、終戦から80年以上経った現代でも、我々の日常に蔓延するウィルスである。恐らく、今現在地球上で起きている戦争・紛争の原因も、これに起因しているのかもしれない。大なり小なり、我々の下す決断や犯す過ちの影には、この「空気」が漂っているのかもしれない。

 

「でもね、最後は必ず誰かが正しい判断をするはずなんです。」

 

日本が叡智を結集して「敗け方」の研究をしていたら、どうなっていただろうか。あの戦争を戦わずして回避していたら、我々はどんな今を過ごしていただろうか。考えさせられた。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『フロントライン』を観て。

『フロントライン』 2025
【監督】関根 光才

 

 

「今日、お味噌汁付いてます。」

 

2020年2月、未知のウィルスが世界中に蔓延し始める中、多国籍の乗客・乗員3711名を乗せた豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス号」が横浜に着港する。対応にあたったのはDMAT(Disaster Medical Assistance Team・災害派遣医療チーム)、災害対応のスペシャリスト医療チームだった。パンデミック対応のノウハウを持たないボランティア医療チームは、メディア・世間の注目を集めながら、目の前の人命を救うべく前例のない脅威に立ち向かう。
5年前、人類に襲いかかった新型コロナウィルス感染症に、日本で初めて立ち向かった人々の最前線が描かれる。
※主演の小栗旬さん、松坂桃李さん、池松壮亮さん、森七菜さん、窪塚洋介さんの役には、実在のモデルとなった方々がいらっしゃいます。 

 

「ルールを破れないなら、変えちゃうことはできないのか?」

 

必ず観るべき一作である。自分自身が実際に体験・見聞きした事実に基づく作品でありながら、正にまるで映画のような出来事だったなと、当時を振り返り思う。正直、自分が知っていた情報・事実と比較しても、「あの時そうだったのか!?」といった目新しい情報は無かった。それにも関わらず、本作を観終わった後の感想は「自分は何もわかっていなかったなぁ・・・」だった。断言できる、(自分自身も含め)我々は当時起きた事実を「知っている」だけで、実は何も理解できていない。

 

「自分の家族が差別に合うことが何より怖いです。」

 

当時、あの船に乗っていた医療従事者・クルー・乗船客に何が起きていたのか。命を脅かす未知の恐怖と戦い、使命感に奮い立ち、世間の無理解に葛藤する中、どれほどの献身を尽くしていたか。映画館で聞こえてきた数多のすすり泣く声は、その事実ががどれほど人の心を動かしたかを物語っていた(自分も何度も鼻の奥がツンとなった)。なぜ心が動いたのか。あくまで自分の感想だが、それは少なからず罪悪感を覚えたからだと思う。

 

本作の初日舞台あいさつで、本作に出演されている窪塚洋介さんが以下のような発言をされていた(YouTubeに動画が上がっています)。
 「降ろしてんじゃねぇよ、船から」とか、思ってなかったっすか?」
この言葉にドキッとし、自分は何て心無い人間だったんだろうと、情けなくなった。

 

「どっかで面白がってませんか?」

 

作中、DMATの指揮官である結城(小栗旬さん)と、テレビニュースのプロデューサーである上野(桜井ユキさん)が対峙するシーンが2回ある。立場の異なるこの2人のやり取りが、個人的には一番の見どころだった。何もわかっていなかった我々は、この作品を上野の視点で見ているところから始まり、やがて少しずつ、結城をはじめとした最前線にいた人々の視点に変わっていくことに気が付く。そしていつの間にか、作中の上野も結城の視点でこの出来事を見るようになっていく。この、自分とは違う立場の人の視点に立つことが重要なのではないか。

 

報道の在り方や、それに接する我々の姿勢にも問題提起する本作を観て、報道は「見て理解したつもりになるもの」ではなく、「知って何かを感じとるもの」であるべきではと思った。間違っても「他人事と断定して面白がる」ものにしてはいけない。

 

「人道的に正しいと思ったからですよ。」

 

あの時、色んな立場の人がそれぞれの最前線(フロントライン)に立っていたという当たり前のことにも気付かされた。この映画の登場人物のように、自分の身近にいる人々の知られざる苦悩や献身にも想いを寄せられたら、当時の苦労が報われる人々が多くいると思う。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『タイタンズを忘れない』を観て。

『タイタンズを忘れない』 2000
【原題】Remember the Titans
【監督】ボアズ・イェーキン(Boaz Yakin)

 

 

“Football is about controlling that anger, harnessin’ that aggression into a team effort to achieve perfection!”

「フットボールとは怒りに手綱を付け、如何にそれを勝利へのエネルギーに変える完璧なチームを作るかだ!」

 

1971年、アメリカ・ヴァージニア州の田舎町アレクサンドリアは、公民権運動の影響により人種差別の壁が徐々に取り払われ始めようとしていた。そんな中、白人の高校と黒人の高校が統合され誕生したT.C.ウィリアムズ高校のフットボールチーム「タイタンズ」は、黒人のヘッドコーチ、ハーマン・ブーン(デンゼル・ワシントン)を迎え入れる。それまでヘッドコーチを務めていた白人、ビル・ヨースト(ウィル・パットン)はアシスタントとして残るも、当然のように軋轢はチーム内に充満する。しかし、選手も指導陣も黒人と白人の混合チームは、いがみ合いを乗り越え、州大会を連勝で勝ち上がっていくのだった。

 

“Yeah, this is my sanctuary right here. All this hatred and turmoil swirling around us, but this, this is always right. Struggle. Survival. Victory and defeat.”

「ここが私の聖域だ。一歩出れば憎しみと混乱が渦巻く中、ここだけはまともだ。戦い、生存、勝利と敗北。」

 

歳の離れた友人に、好きな映画を聞いた。彼が小学生の時から知っている仲だが、大学生になった彼の口から本作のタイトルを聞いた瞬間、胸が熱くなった。彼が観てきたであろう数多の作品の中から、彼が人種差別とスポーツを題材にした本作を選んだことが無性に嬉しかった。自分もすぐに観返したが、実話をもとにした本作はやはり名優デンゼル・ワシントンの熱血/鬼コーチぶりをはじめ、名作と言われるだけのパワーも持った一作だった(若き日のライアン・ゴズリングが出ていたのには驚いた)。

 

“I don’t care if you don’t like each other or not, but you will respect each other. And maybe you’ll learn to play this game like men.”

「お互い好きにならなくても構わない、だが相手を認めろ。そうすればいつかきっと人として向き合えるだろう。」

 

数あるスポ根(スポーツ根性もの)映画の中でも、本作を観た後、一際「respect」という言葉が記憶に残った。「敬意」や「尊重」といった日本語に訳した言葉ではなく、英語の「respect」という言葉がしっくりくる。まるで違う意味の言葉のように、より強力で、より堅固で、より鉄壁な概念のように感じる。また、この概念が、一見相容れないように思える「hate(嫌い)」という概念と両立するという考えには目から鱗の気づきだった。嫌いな相手でも、「respect」することはできるのかもしれない。

 

“Listen to their souls, men. “I killed my brother with malice in my heart, hatred destroyed my family”. You listen, and you take the lesson from the dead. If we don’t’ come together, right now on this hollowed ground, then we too will be destroyed. Just like they were.”

「彼らの魂が叫んでる。「敵意が兄弟を殺させた、憎しみが家族を破壊した」と。耳を澄ませろ、死者から学べ。この神聖な場所でひとつになれなければ、我々も終わる。彼らのように。」

 

作中、タイタンズの選手たちが早朝ランニングのゴール地点である南北戦争(The Civil War)の戦地・ゲティスバーグを訪れるシーンがある。朝霧の中で膝に手をつく汗だくの選手たちの様子が、その昔同じ場所で、硝煙の中で血まみれになりながら散っていった若い兵士たちと重なる。南北戦争のあった1861年、本作の舞台である1971年、そして現代と、アメリカはいまだに同じ戦いを続けている。

 

人は似た者同士で群れたがる生き物である。そして、違う者同士で敵対してしまう生き物でもある。生き残るために刻み込まれた我々の生存本能が、差別を生む。完全に無くそうとするのはとても難しいし、もはや不自然なことなのかもしれない。ただ、無くそうとする姿勢の中に「respect」は生まれるように思う。これを実現するために、スポーツのできることは大きいのではないか。同じ目標を持ったチーム/チームメイトへの「respect」、対戦相手への「respect」、チームスポーツの本当の価値はここにあるように感じる。

 

“In Greek mythology, the Titans were greater even than the gods. They ruled their universe with absolute power. Well, that football field out there tonight, that’s our universe. Let’s rule it like Titans.”

「ギリシャ神話では、タイタンは神々より偉大だった。絶対的な力で宇宙を支配していた。今夜、あのフィールドが我々の宇宙だ。タイタンたれ。」

 

“Welcome to my life”、ハーマン・ブーン(デンゼル・ワシントン)がビル・ヨースト(ウィル・パットン)に言うこのセリフ。「僕の人生へようこそ」とも「僕の気持ちがわかったか」とも訳せる。お互いの「life」 に「respect」を持って関わる姿勢が解決への糸口なのかもしれない。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『ルックバック』を観て。

『ルックバック』 2024
【監督】押山 清高
【原作】藤本タツキ

 

 

「京本の絵と並ぶと、藤野の絵ってフツーだな。」

 

小学四年生の藤野は、学級新聞に4コマ漫画の連載を持つ、絵に自信がある女の子。ある日、学級新聞で藤野の4コマ漫画の横に、不登校生・京本の4コマ漫画が掲載される。圧倒的な画力で描かれた京本の絵と並んだ藤野の絵は、クラスメイトと自分自身の中で「フツーの絵」に成り下がってしまう。自分より絵が上手い子がいることが許せないと、無我夢中で絵を描きまくった藤野は、いつしか小学六年生になっていた。それでも京本の絵に画力では敵わないと悟った藤野は、遂に、絵を描くことを辞めてしまう。

やがて卒業の日が訪れ、藤野は学校の先生に卒業証書を京本の自宅まで届けるようにお願いされる。対面の時が来た。

 

「やーめた。」

 

映画レビューサイトに溢れていた「泣けた」、「くらった」、「刺さった」という、本作を観たたくさんの人の称賛の言葉たちが、本作への興味を引いた。原作の短編漫画のことも、原作者(藤本タツキ先生、『チェンソーマン』の作者)のことも知らなかったが、「ひとまず観ておくか」と、ふらっと映画館に足を運んだのが、本作との幸運な出会いとなった。御多分に漏れず、自分もこの映画から何らかの衝撃を受け取った。

 

個人的に一番驚いたのは、本作の映画としての「濃度」の高さ。58分という短い本編の中で、観る人の感情を揺さぶる要素が詰め込まれていた。言葉にするのが難しいが、「頭(知識)」でなく「心(感情)」に訴えてくる作品になっていたことが、創作(モノ(絵・漫画・作品)を創り出すこと)がテーマに設定されていたにも関わらず、クリエイターだけではない万人が共感できた要因だったように感じる。

 

「じゃんじゃん使ったのに、5,000円しか使わなかったなぁ・・・」

 

誰にでもある経験を描いている。誰しもが抱いたことのある感情を描いている。以下、自分が共感したものの一部をまとめてみたい(人の気持ちを言語化する難しさを再認識することもできた)。

 

(挫折・嫉妬)
人より優れていると自信を持っていたことが、ある日突然、勝てない存在の出現により、自分自身の価値を疑いだす。どうやっても適わないと悟ってしまった瞬間、何だか続ける意味を見出せなくなり、辞めてしまう。

 

(称揚・歓喜)
「この人に認められたい」という人から「良くやったな」、「すごいじゃん」と認められた時の、何とも言えない高揚感。嬉しさのあまり感情が暴れ出し、思わず走り出したり、踊り出したりしたくなってしまう。

 

(不条理・喪失・たられば)
他人の狂気に巻き込まれる不条理。何の前触れもなく、突如訪れる喪失・別れ。予期しないことに心の整理がつかず、頭が空っぽになったり、悲しみでパニックになったりを繰り返し、「あの時~していれば/していなければ」と現実から逃げてしまう。

 

こんな思いを抱えながら、過ぎ去る日々を乗り越え、来る日々に向かっていく。何のために?はっきりとはわからなくても、それぞれの人の中にきっと答えがあるはず、と言われた気がした。

 

「じゃあ藤野ちゃんは、何で書いてるの?」

 

奇しくも、今年の目標として「絵を描く」ことを立てていたのを思い出し、買ってほったらかしにしていたスケッチブックに絵を描き貯め始めた。小学四年生の藤野がそうしたように、まずは「とにかく描け!」でいきたいと思う。創作に対する憧れに奮い立ち、行動に移した夏になった。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『オッペンハイマー』を観て。

『オッペンハイマー』 2023
【原題】Oppenheimer
【監督】クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)

 

 

“Algebra’s like sheet music, the important thing isn’t can you read music, it’s can you hear it. Can you hear the music, Robert?”
「代数学は楽譜のようなものだ、重要なのは楽譜を読めるかではない、音楽が聞こえるかだ。ロバート、音楽が聞こえるか?」

 

「原爆の父」として知られる理論物理学者で原子力爆弾の開発者、J・ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の生涯を描いた伝記映画。一人の男が世界のあり方を変えてしまった、その一部始終が彼自身の視点、および彼の宿敵であったアメリカ原子力委員会委員長ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)の視点を交互に行き来しながら描かれる。第96回アカデミー賞最多7部門受賞(作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞・撮影賞・編集賞・作曲賞)。

 

“We have to make the politicians understand, that isn’t a new weapon. It is a new world.”
「政治家たちはわかっていない、あれは新しい兵器ではない、新しい世界だ。」

 

人類史上まだ一度しか使われたことのない兵器、原子力爆弾(核爆弾)。その生みの親を描いた映画が、世界唯一の被爆国である日本で公開され、日本人である自分が観るという事実に、普段以上に色々なことを考えながら鑑賞した。観終わった後の心境には、IMAXカメラによるスケールの大きな映像や、緻密に描かれた人々の複雑な心情に圧倒された感覚に加え、日本人にしか抱けない複雑な気持ちも乗っかっていたように思う。第二次世界大戦を題材にした映画の多くには(原爆を)落とされた側/落とした側(集団)の視点で描かれた作品が多いが、本作には作った人(個)の視点に立たないと見えてこない「何か」が内包されていた

 

“Now I am become death, the destroyer of worlds.”
「これで私は“死”となった、この世の破壊者だ。」

 

本作を観賞したのと同じ時期に、たまたま読んでいた本に以下の文章を見つけた。

「人間が、いったん開発したテクノロジーを、手離したり封印したりすることはできない。平和利用するしかありません。」

赤坂憲雄ほか編『危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』』87項

(徳間書店、2023)

探求心に掻き立てられ、どんどん進化・進歩してきた人類には、「存在しない世界」を幸福に想う感覚は備わっていないように思う。一度生まれた技術、身に付けた知識に対して、「取り返しがつかない」という感覚を抱かされた初めての作品だった。また、「作った人(科学者)」と「使う人(政治家・軍人)」が違うという、よく考えれば恐ろしい事実にも目を向けなければいけない。

 

「この人が開発していなかったら・・・」と考える。しかし、その次の瞬間には「いや、いずれ誰かが開発してしまっていたであろう・・・」と考え直す。オッペンハイマーは歴史的な悪名を背負ってしまった人なのかもしれない。映画の終盤、オッペンハイマーとトム・コンティが演じるアインシュタインの苦悶の表情が印象に残る。科学者が背負い残酷な宿命、それに苦しめられる後悔の表情が頭から離れない。

 

“I believe we did.”
「我々は“連鎖”を始めてしまったようだ。」

 

世界を滅ぼすほどの威力を持つ兵器が、世界を滅亡から守っているという皮肉。人類は核を「持つ」連鎖は防げなかったが、「使う」連鎖だけは、何としてでも食い止めなければならない。

 

我々は、オッペンハイマーが作った世界に生きている。

 

 

さて、次は何観ようかな。