映画を観て、想うこと。

『オッペンハイマー』を観て。

オッペンハイマー』 2023
【原題】Oppenheimer
【監督】クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)

 

 

“Algebra’s like sheet music, the important thing isn’t can you read music, it’s can you hear it. Can you hear the music, Robert?”
代数学は楽譜のようなものだ、重要なのは楽譜を読めるかではない、音楽が聞こえるかだ。ロバート、音楽が聞こえるか?」

 

「原爆の父」として知られる理論物理学者で原子力爆弾の開発者、J・ロバート・オッペンハイマーキリアン・マーフィー)の生涯を描いた伝記映画。一人の男が世界のあり方を変えてしまった、その一部始終が彼自身の視点、および彼の宿敵であったアメリ原子力委員会委員長ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)の視点を交互に行き来しながら描かれる。第96回アカデミー賞最多7部門受賞(作品賞・監督賞・主演男優賞・助演男優賞・撮影賞・編集賞・作曲賞)。

 

“We have to make the politicians understand, that isn’t a new weapon. It is a new world.”
「政治家たちはわかっていない、あれは新しい兵器ではない、新しい世界だ。」

 

人類史上まだ一度しか使われたことのない兵器、原子力爆弾(核爆弾)。その生みの親を描いた映画が、世界唯一の被爆国である日本で公開され、日本人である自分が観るという事実に、普段以上に色々なことを考えながら鑑賞した。観終わった後の心境には、IMAXカメラによるスケールの大きな映像や、緻密に描かれた人々の複雑な心情に圧倒された感覚に加え、日本人にしか抱けない複雑な気持ちも乗っかっていたように思う。第二次世界大戦を題材にした映画の多くには(原爆を)落とされた側/落とした側(集団)の視点で描かれた作品が多いが、本作には作った人(個)の視点に立たないと見えてこない「何か」が内包されていた

 

“Now I am become death, the destroyer of worlds.”
「これで私は“死”となった、この世の破壊者だ。」

 

本作を観賞したのと同じ時期に、たまたま読んでいた本に以下の文章を見つけた。

「人間が、いったん開発したテクノロジーを、手離したり封印したりすることはできない。平和利用するしかありません。」

赤坂憲雄ほか編『危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』』87項

徳間書店、2023)

探求心に掻き立てられ、どんどん進化・進歩してきた人類には、「存在しない世界」を幸福に想う感覚は備わっていないように思う。一度生まれた技術、身に付けた知識に対して、「取り返しがつかない」という感覚を抱かされた初めての作品だった。また、「作った人(科学者)」と「使う人(政治家・軍人)」が違うという、よく考えれば恐ろしい事実にも目を向けなければいけない。

 

「この人が開発していなかったら・・・」と考える。しかし、その次の瞬間には「いや、いずれ誰かが開発してしまっていたであろう・・・」と考え直す。オッペンハイマーは歴史的な悪名を背負ってしまった人なのかもしれない。映画の終盤、オッペンハイマートム・コンティが演じるアインシュタインの苦悶の表情が印象に残る。科学者が背負い残酷な宿命、それに苦しめられる後悔の表情が頭から離れない。

 

I believe we did.”
「我々は“連鎖”を始めてしまったようだ。」

 

世界を滅ぼすほどの威力を持つ兵器が、世界を滅亡から守っているという皮肉。人類は核を「持つ」連鎖は防げなかったが、「使う」連鎖だけは、何としてでも食い止めなければならない。

 

我々は、オッペンハイマーが作った世界に生きている。

 

 

さて、次は何観ようかな。