映画を観て、想うこと。

『洗骨』を観て。

洗骨, 2019
監督:   照屋 年之

 

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「じゃあ、オカア、4年後。」

 

新城家は4年前に亡くなった母・恵美子(筒井真理子)の「洗骨」の儀式を控えていた。「洗骨」とは沖縄諸島粟国島などで今なお残っているとされる風習で、亡くなった後、風葬し骨だけになった故人を身内の手で綺麗に洗い、埋葬するというものである。妻を亡くしてから酒浸りになり抜け殻のように生きていた父・信綱(奥田瑛二)の住む実家に、東京からまじめな長男・剛(筒井道隆)、名古屋からは美容師をしている長女・優子(水崎綾女)が帰ってきた。親戚も含め4年ぶりに集結した新城家は、それぞれが人生の苦労と葛藤を抱えていた。果たして無事に洗骨の儀式を執り行うことができるのだろうか。

 

「他人の不幸は蜜の味。密は甘くておいしいけど、周りを確認して食べないと一瞬で毒に変わるんだよ!ばかやろう。」

 

本作を手がけた照屋年之監督、我々は彼のことを別の名前で認識している。お笑い芸人、ガレッジセールのゴリさんである。映画監督というイメージが全くなかった彼は、ユーモアも交えながら、本作で自らの故郷である沖縄に伝わる死生観やそれとの向き合い方を観る人に届けてくれている。シビアな題材を扱うだけに、プレッシャーも大きかったに違いないが、「彼にしか撮れない作品だなぁ」というのが観て感じた率直な印象だ。丁寧に、時にはクスッと笑わせながら、故郷を想う大切さや人生における教訓を教えてくれる。作品からにじみ出てくる温かさは、監督や役者、その他のスタッフが一丸となって「エンジョイプレイ」の精神で制作に臨んでいたことを証明している。

 

「怖くないんですか?」

「そりゃ皆辛いさ。俺だってさ、自分の親の変わり果てた姿見たくなかったよ。泣き出す子供もいっぱいいるし、大人だって酒飲まないとやれない人多いよ。」

「なのに何でやるんですか?」

「それが、風習ってやつさ。」

 

作中で繰り広げられる洗骨という風習を巡るある会話の一節である。このセリフを聞いて、近頃何ごとにおいても意味や理由を見出さないと行動できない世の中になっていないだろうか、と感じてしまった。「それ、意味あるんですか?」と何に対しても投げかけるのは簡単なことである。でも、時にはあってもいいと思う。「何にでも理由を求めるなよ。理由なんかないんだよ、そういうものなんだから」という人の気持ちや想いが前面に出た答えが。人の心は損得勘定では計れない、言葉で論理的に説明できないこともあるのだから。

 

死生観は国や文化によって様々であり、中には理解できないものもあるかもしれない。でも、それを守ってきた人たちの想いは純粋で、そこにある気持ちは故人に対する「今までありがとう」の気持ちだと思う。本作で行われる洗骨儀礼、なぜ一旦ご遺体を風葬させ、骨を洗うのだろう。私は遺体が骨になるまでの月日が大切なのだと思う。4年という歳月を経過させることによって、ご遺体からは肉が無くなり骨と髪の毛だけになるように(髪の毛は残るらしい)、残された親族の心からは故人を亡くした直後に襲ってくる「悲しさ」が幾ばくか無くなり、膨らむ「ありがとう」の心を再確認できるのではないか。故人のために残された者が執り行うように見えるこの儀式は、実は残された者のために存在している儀式なのかもしれない。

 

 「祖先とは何なのか?それはつまり、自分自身である。」

 

自分のご先祖様を想う、そんなひと時になります。悲しみによるものではない涙が目に滲みます。手を合わせて祖先から繋がってきた命のバトンを意識する/したくなる、そんな優しい映画です。

 

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さて、次は何観ようかな。