“Bond. James Bond.”
「ボンドだ。ジェームズ・ボンド。」
このセリフを口にする権利を得る役者が、今後一体何人現れるだろう。イギリスの秘密情報部“MI6”の腕利きエージェント、“007(ダブル・オー・セブン)”ことジェームズ・ボンド。もはや映画好きでなくても、彼の名前とコードネームは誰しもが聞いたことのある一般常識レベルのキャラクターだろう。イギリスの小説家、イアン・フレミングが1953年に生み出した世界で最も有名なスパイは、これまで6人の役者に演じられてきた:ショーン・コネリー(初代/6作)、ジョージ・レイゼンビー(2代目/1作)、ロジャー・ムーア(3代目/7作)、ティモシー・ダルトン(4代目/2作)、ピアース・ブロスナン(5代目/4作)、そしてダニエル・クレイグ(6代目/5作)だ。
2021年10月に公開された『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』をもって、6代目として主演を務めたダニエル・クレイグは15年間の007/ジェームズ・ボンドとしての役目を終えた。史上初の金髪、青い目のジェームズ・ボンドとして抜擢された彼に待ち受けていたのは、痛烈な批判だった。「ボンドにふさわしくない」、「誤った配役」、「身長が低い」、「醜い顔」、「史上最低のボンド」といった酷評を、そのハードボイルドな演技と見応えのあるアクションで跳ね除け、歴代最長となる15年もの間、ジェームズ・ボンドという看板を背負い続けた。肉体的にも精神的にも苦労の多い15年だったことが予想されるダニエル・クレイグに、まずは心より「お疲れ様でした!!」の言葉を贈りたい。
個人的に、ジェームズ・ボンドと言えばピアース・ブロスナン(5代目ジェームズ・ボンド)の印象が強かった。ダニエル・クレイグという役者のことは正直、彼が007になるまで知らなかった。そんな「無名だった」役者が残した5作品により、自分の中の007像は見事に塗り替えられてしまった。改めて、ダニエル・クレイグが演じた007シリーズは一体どのような作品だったのか。最新作を映画館で観た後、居ても立ってもいられなくなり、クレイグ版ボンド前4作品も観返してみた。何を想ったかまとめてみたい。
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『007/カジノ・ロワイヤル』2006
【原題】Casino Royale
【監督】マーティン・キャンベル(Martin Campbell)
"You don't trust anyone, do you, James?"
「ジェームズ、誰も信用しないのね?」
"No."
「ええ。」
"Then you've learnt your lesson."
「学んだわね。」
やはりシリーズ成功のカギを握ったのは1作目『007/カジノ・ロワイアル』。その完成度の高さと、クレイグ版ボンドとしての「こだわり」をセンセーショナルに提示した一作。本作ではジェームズ・ボンドが殺しのライセンスを得て昇格する、“007”誕生の瞬間が描かれている。体も顔も傷だらけになりながら体当たりで任務に挑む、粗削りで血気盛んなボンドはこれまでのボンド映画に無かった新鮮さがある。また物語上では、エヴァ・グリーンが演じたヴェスパーというヒロインの存在がクレイグ版ボンドの最も重要な設定となっている。ボンドはシリーズを通して彼女への想いを引きずることになるからだ。
そう、クレイグ版ボンドは一途な男なのだ。
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『007/慰めの報酬』2008
【原題】Quantum of Solace
【監督】マーク・フォースター(Marc Forster)
"Tell me when you do. I'd like to know how it feels."
「復讐を遂げたら教えて。どう感じるか知りたいの。」
2作目「007/慰めの報酬」では前作で大切な女(ひと)を失ったボンドの傷心が描かれる。復讐心と怒りに燃えるボンドの見事な職権乱用っぷりが見どころ。殺しのライセンスを武器に、とにかく殺しまくるボンドの狂気に満ちた冷たい目は、間違いなくこの2作目で一番冷たさを帯びた青い目だっただろう。ボンドの上司であるMまでも「殺しすぎだ!」と叱る始末。手の付けられないボンドは、ラストで成長も見せる。
そう、クレイグ版ボンドは根に持つタイプなのだ。
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『007 スカイフォール』2012
【原題】Skyfall
【監督】サム・メンデス(Sam Mendes)
"Where the hell have you been?"
「今までどこにいたの?」
"Enjoying death. 007 reporting for duty."
「"死"を満喫していました。007、職務に復帰いたします。」
予想外な展開が満載な3作目『007 スカイフォール』。殉職からの復帰(!?)に始まり、彼自身の肉体の衰え、生まれ故郷、同僚との連携など、これまでにないジェームズ・ボンド像が描かれる。「世代交代」というテーマが印象的な本作の見どころはやはり、ボンドの上司であるMを演じたジュディ・デンチ(5代目シリーズからのM役)の勇退だろう。古きものの良さと、新しい世代の逞しさ、観終わった後、余韻に浸ってしまう良作。
そう、クレイグ版ボンドは結構いい歳なのだ。
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『007 スペクター』2015
【原題】Spectre
【監督】サム・メンデス(Sam Mendes)
"It was all me, James. It's always been me. The author of all your pain."
「全て私だったんだよ、ジェームズ。君の苦しみはすべて、私の作品だったんだ。」
これまでの事件の黒幕が遂に明らかになる4作目『007 スペクター』。タイトルにもなっている巨大な敵組織「スペクター」、その首領と実は所縁のあったボンド。因縁の敵の再登場、その再会から新たなヒロイン、マドレーヌ(レア・セドゥ)との出会いに繋がる本作。クレイグ版ボンドは当初は本作が最後になるかに思われていたが、描くべき物語がまだ残されていた。マドレーヌの過去に。
そう、クレイグ版ボンドは、実はすでに引退していたのだ。
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『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』2021
【原題】No Time to Die
【監督】キャリー・ジョージ・フクナガ(Cary Joji Fukunaga)
“You have all the time in the world.”
そして最終章、『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』。前作までの4作がエージェント“007”を描いていたのに対して、5作目の本作は人間“ジェームズ・ボンド”を描くという、クレイグ版ボンドの中でもまた一味違う作品に仕上がっている。「過去を忘れることができるか」というテーマからも、このシリーズを完結させんとする覚悟と、次なるシリーズへのリスペクトがひしひしと伝わってくる。ラスト、ボンドの「青い目」がクローズアップされるシーンがある。15年前に受けた「007に相応しくない」というバッシングの対象となったのも「青い目」だった。そのあまりの美しさに、目頭が熱くなった。
そう、クレイグ版ボンドのフィナーレはあっぱれな締めくくりなのだ。
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クレイグ版ボンドの一番の特徴は、5作全ての物語が繋がっているという点だ。作品ごとにストーリーが独立して成り立っていた過去シリーズの作品とは違い、まるで「5作で1作」の作品であるかのような、15年をかけて完結した一つの物語のような重厚感がある。クレイグ版ボンドの「こだわり」、それはシリーズを通して“ジェームズ・ボンド”という「人間」を描いたことにあり、この点においてはこれまでのシリーズでは果たせなかった成功を収めたシリーズだったと言える。そういう意味で、ダニエル・クレイグは歴代のどの役者よりも色濃く“ジェームズ・ボンド”の生き様を残したと思う。
人間を描くからには、その人間の「弱さ」もしっかり捉えなければ作品が軽くなってしまう。クレイグ版ボンドはこの点からも決して目を逸らさず、むしろ積極的に「弱いボンド」を描き続けた。未熟なエージェントから始まり、傷つき、怒りに我を忘れ、絶望し、老いや過去のトラウマと向き合い、引退した後も弱った体に鞭打ってまた戦いの場に戻っていく。ボンドの一番の弱点は何だったのか。それは人からの「裏切り」、特に「愛した女性からの裏切り」に耐えられない男だったのではないだろうか。
また、シリーズを通して、数々の印象的なシーンがいくつも浮かんでくるのも、これら5作が映画作品として傑作だった証だ。荒唐無稽な娯楽スパイ映画に人間ドラマというエッセンスを加え昇華させた功績は素晴らしい。目の肥えた映画ファンは、早くも次のボンドが誰になるかを見据えているが、今しばらくはクレイグ版ボンドの余韻に浸っていたい気持ちの方が強い。焦らずに待ちたい。だって、“James Bond will return”(『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の最後に登場するテロップの一文)なのだから。
最後に、シリーズで何度か登場する個人的に一番好きなジェームズ・ボンドのセリフでこの記事を閉めたい。「何でそれ?」と思われるかもしれないが、なぜか印象に強く残っている、潜入捜査をするエージェントとして最も大切な心得である。
“Stop touching your ear.”
「耳に手をあてるな。」
さて、次は何観ようかな。