映画を観て、想うこと。

『十二人の怒れる男』を観て。

十二人の怒れる男 12 Angry Men, 1957
監督シドニー・ルメット(Sidney Lumet)

 

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“However you decide, your verdict must be unanimous. In the event that you find the accused guilty, the bench will not entertain a recommendation for mercy. The death sentence is mandatory in this case. You’re faced with great responsibility.”
「いずれの場合も評決には全員の合意が必要です。皆さんの討議の結果「有罪」の評決が出れば、当法廷は情状酌量の余地はないものと認め、被告人に死刑を宣告するものであります。皆さんの決定には重大な責任が伴うことをお忘れなく。」

 

ある少年が父親を殺した罪で起訴されている。裁判所に提出された証拠や関係者の証言から、スラム出身の少年の有罪を誰もが確信していた。この裁判の評決を決めるべく陪審員室に集められた12人の陪審員は投票(挙手)で審議を確認することにした。しかし、審議は「有罪」で一致しすぐに終わると思われたが、12人中ただ1人、8番陪審員の男(ヘンリー・フォンダ)は少年の有罪に疑問を主張する。審判には陪審員全員の意見一致を必要とする中、「疑わしい点があるので、議論しよう」と訴える8番陪審員に対し、最初は怪訝の念を持つ残り11人の陪審員たちは、議論が進むにつれ、一人また一人と審判を覆していくのだった。

 

“Well, I think testimony that could put a boy into the electric chair should be that accurate.”
「少年を電気椅子に送るかを決める証言ですから相応の正確性が求められるべきです。」

 

今から60年以上前に制作された本作は、誰もが一度は観ておくべき法廷サスペンスの傑作だ。ほぼ全編通して一つの部屋で繰り広げられるこのワンシチュエーション映画は、数ある法廷映画の中では珍しく、弁護士や裁判官ではなく、陪審員、つまり一般市民が法廷劇の主役に置かれている。アメリカが取る陪審制は裁判官が刑の重さを決め、陪審員が有罪/無罪を決める(ちなみに、日本が取る裁判員制度は裁判官と裁判員が一緒に議論して有罪/無罪と刑の重さを決める)。つまり、本作の主人公は法律に関する知識が豊富でない我々と同じ一般市民であり、だからこそ感情移入がしやすい。繰り広げられる議論に「あなたはどう思う?」と自らの考えを持って参加しているような感覚で鑑賞できる。タイトルだけ見ると重苦しくて敬遠されてしまいそうな作品だが、一人の少年の命運をかけた討論がこの作品の最大の見どころであり、どの年代の人にも大切なメッセージが力強く伝わる作品である。

 

“But we have a reasonable doubt, and that’s something that’s very valuable in our system. No jury can declare a man guilty unless it’s sure.”
「しかし、我々には筋の通った疑問があり、我々の法制度ではそれが肝心なのです。陪審員は確信が無い限り「有罪」を宣告してはいけないのです。」

 

12人の陪審員の審議は当初、人の命がかかっているにもかかわらず、異様なまでに軽く、無責任な発言が飛び交うところから始まる。「さっさと済ませて帰ろう」、「どうせ貧困層のガキのことだから、やったに決まっている」と、思い込みや偏見に支配された男たちは、ものの数分で少年に「有罪」の判決を下すところだった。この状況を打開したのが、8番陪審員が投じた疑問と、そこから繰り広げられる議論により生まれた「怒り」だ。多くの場合はマイナスのイメージを残してしまうこの「怒り」という感情は、時として必要な熱量や推進力をもたらしてくれることがある。

 

実際に少年は父親を殺していたのか、殺していなかったのか、本作は描いていない。「本当に何が起きたかは当事者以外誰にも分らない」という事実を「描かない」ことでうまく伝えてくれている。これは映画の中でも現実の世界でも同じである。ただ、裁判においては誰にもわからない真実を追求し判決を下さなければならない。

その決断をゆだねる対象は一人の賢者であるべきなのか、複数人による議論の結果であるべきなのか、これもまた答えの出ない問いだ。「一人の人間の独断と偏見」で決まることや、逆に「全員の満場一致をもって」決まることにも違和感がある。決断に熱を感じないからだ。熱はやはり複数人の議論の末にしか生まれないのだろう。

 

“It’s not easy to stand alone against the ridicule of others.”
「他者の嘲笑に一人立ち向かうのは勇気のいることだ。」

 

熱を帯びていない議論の場に居合わせた際、多勢の意見に反することになったとしても、疑問があるのならあなたの投じる一石には大きな意味がある。8番陪審員のように「疑問がある」、「議論しよう」と声を出して言えるようでありたいものだ。一番の悪は冷めた議論の場なのだから。

 

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さて、次は何観ようかな。