映画を観て、想うこと。

『カランコエの花』を観て。

カランコエの花』 2016
【監督】中川 駿

 

 

「もしかしたらさ、ウチのクラスにいるんじゃね?」

 

ある高校のクラスでLGBTに関する授業が行われる。突然のことに戸惑う生徒たちは、他のクラスではLGBTに関する授業は行われておらず、そのクラスのみで行われた特別授業であったことを知る。「うちのクラスにLGBTの子がいるに違いない」。憶測が錯綜する中、ある日、クラスで・・・。

 

職場の同僚におすすめしてもらった一作。40分ほどの短編映画である本作は、短い時間の中でLGBT(Lesbian、Gay、Bisexual、Transgenderの頭文字を組み合わせたセクシャルマイノリティの総称のひとつ)という大きくて難解なテーマを扱っている。作品の中に詰め込まれたメッセージの強さと、未熟な若者たちの脆(もろ)くて繊細な人隣りがしっかり描かれている、リアルな学園モノである。濃厚な40分、されど無理に詰め込まれた感は無く、作品に余裕があるのがとても不思議だ。

 

「最近はさ、そういうのも学校でやるんだね。」

 

かつて自分も毎日通っていた「学校」という空間。改めて感じたのは、その独特な「息苦しさ」と「閉塞感」。当時はその狭さに気付けていなかったように思うが、授業、教室、部活、人間関係、そのすべてが窮屈に感じる。こんな狭い世界で、悩みを抱えることの不安、その悩みを打ち明ける恐怖を想像すると、息が詰まる思いだ。学校にはルールが多すぎるように思う。校則や制服、学年という区切りすらも彼らを狭い世界に縛り付ける足枷(あしかせ)と化している。大切なのはルールで縛り付けることではなく、広い心を育む環境を整えることではないか。そう考えると、今も昔も、学校という場所は「そういうの」を教えることに適しているのだろうか。

 

そんな狭い世界では、時に友達を想う友情や生徒を想う教育心は、美しいものから残酷なものに豹変してしまうことがある。「良かれと思って」という名の罠だ。善意の陰に隠れて、思いやりを仇に変えてしまう罠。そんな罠に本作の登場人物たちはまってしまう。しかし、彼ら/彼女らにとっては貴重な学びだ。傷ついた者と傷つけた者しかいないからこそ、今後の長い人生で一生忘れることのない教訓になる。痛みを伴う学び、意図せず生まれる学びだからこそ、一番強力だったりするのかもしれない。

 

カランコエ花言葉はね、・・・

 

今田美桜さんが演じる主人公の赤い髪留め、さり気なく張られていた複線を回収するエンドロール、『カランコエの花』というタイトルの意味、すべてが繋がる瞬間、切ない教訓が我々の胸にも突き刺さる。甘い青春の1ページなんかじゃ決してない、ほろ苦い青春の一幕。苦い薬ほど、よく効くものだ。

 

多様性は広いところでしか育たない。だから、広くする必要がある。環境を、視野を、価値観を、人間関係を。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『トップガン マーヴェリック』を観て。

トップガン マーヴェリック』 2022
【原題】Top Gun: Maverick
【監督】ジョセフ・コシンスキー(Joseph Kosinski)

 

 

“I don’t like that look Mav…”
「気に入らない目つきだな・・・」

“It’s the only one I got…”
「普段と同じさ・・・」

 

1986年公開の『トップガン』から36年ぶりに制作された続編。海軍大佐ピート・“マーヴェリック”・ミッチェル(トム・クルーズ)は、米海軍のパイロットとして輝かしい戦績・功績を残しつつも、昇進を避け続け、問題を起こしては左遷されることを繰り返し、未だ現役パイロットとして空を飛んでいた。そんな彼は、ある任務のため再びトップガンアメリカ海軍エリート・パイロット養成学校の通称)に戻ることを命じられる。しかし、上官からの説明を聞いたマーヴェリックは、自分がパイロットとしてではなく、パイロットを育てる教官としてトップガンに呼び戻されたことを知るのだった。

※「マーヴェリック(Maverick)」は主人公ピート・ミッチェルのコールサイン(部隊内の愛称)、英語で「異端児」の意。

 

“Just a little push.”
「もう一押し。」

 

映画館でしか味わえない至福の体験だった。終始鳥肌は立ちっぱなしで、映画館を出てもしばらく興奮が冷めなかった(いや、今もなお興奮し続けている)。思わずおかわりが進んでしまい、人生で初めて3回も映画館に観に行った作品になってしまったほど、本作を観終わった後に残る高揚感は病みつきになる。本作は間違いなく、続編として大成功を収めた一作として語り継がれることになるだろう。オリジナル(1作目『トップガン』)公開時(1986年)は生まれていなかった筆者にとって、この続編を映画館で体験できたこともまた幸運なことだったと感じる。

 

冒頭で流れる“♪Top Gun Anthem”の鐘の音とエレキギターの旋律、映画館内に流れる荘厳な雰囲気に、思わず席に座り直し姿勢を正させられる。続いて、あの有名なテーマソング、ケニー・ロギンスの“♪Danger Zone”と共に戦闘機が空母に発着する映像が流れる。音楽と映像で一気に作品に引き込まれてから待ち受けるのは、熱い人間ドラマとリアルな戦闘機アクション。前作を観ていなくても(現に筆者もほとんど内容を忘れていたが)楽しめるように配慮された丁寧な説明と設計。往年のファンも、イチゲンさんも、誰でも楽しませることのできる名作になっている。

 

“The end is inevitable, Maverik. Your kind is headed for extinction.”
「終わりは必然だ、マーヴェリック。パイロットはいずれいらなくなる。」

“Maybe so, sir. But not today.”
「そうかもしれません。でも今日じゃない。」

 

「戦闘機って、こうやって戦うのか!?」と、ドッグファイト(空中戦)のシーンでは度肝を抜かれた。急上昇/急降下/急旋回する機体、敵機の照準を外そうと奮闘するせめぎ合い、発射されたミサイルを回避する操縦など、驚くほど臨場感のある映像はアメリカ海軍の協力なしには実現できなかったに違いない(前作の時と同様、海軍への志願者は急増すること請け合いだ)。そんなリアルにさらに加わるのが、役者たちが体当たりで挑んだ演技というリアルだ。

 

本作で役者たちは実際に戦闘機に乗って演技をしている。このリアルさがしっかり観客に伝わっていることが本作の優れている点だ。戦闘機での飛行は時に10Gという圧力がパイロットの体にかかる(あまりピンと来ないかもしれないが、作中での説明曰く、「まるで象に乗られているよう」とのこと)。尋常ではない状況下での役者たちの演技は、「10Gを感じているような演技」ではなく「10Gを感じながらの演技」である。肺が押しつぶされ、脳に血液が行かなくなり、顔がゆがみ気絶しそうになるのを必死で耐えている姿が作品に刻み込まれているから、その緊迫感はスクリーンを通して観客にも伝わってくる。観終わった後、アゴに残った疲労感から、自分も作品を観ながらずっと歯を食いしばっていたことを、自分もこのリアルを体験していたことに気付く。

 

“It's not what I am, it's who I am.”
「僕にとって仕事ではない、僕そのものなんだ。」

 

山本五十六(いそろく)が残した次の有名な格言がある(筆者の好きな言葉である)。

「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」

人を育てるうえで、まず初めにすべきことは手本を見せてやること。本作は「やって見せる大人」として、トム・クルーズという俳優とマーヴェリックという役(キャラクター)が見事にシンクロしている。

 

若くて優秀なパイロット、エリート中のエリートたちが集められて行われる訓練で、教官マーヴェリックは彼らを圧倒する操縦技術を見せつける。「若造、10年早いぜ」と言わんばかりに、自らの能力と行動で部下たちの訓練を引っ張る教官マーヴェリックの姿に、何度も「Nice…(い~ねぇ)」(作中、モニカ・バルバロ演じる“フェニックス”が呟くセリフ)と心の中で呟いていた。行動で示すことの大切さ、粋さ、魅力を教えられた。

 

そんなマーヴェリックを演じるトム・クルーズもまた行動で引っ張る男だ。今年(2022年)で60歳を迎えた彼の映画製作に対する熱意、アクションに対する熱意は本物だ。無人機の開発で絶滅寸前の戦闘機パイロットも、CGなどの撮影技術の進歩で絶滅寸前のアクション俳優も、絶滅危惧種かもしれないが、今日は滅びない。どんなスタントも自らこなすことで有名なトム・クルーズの眼が黒いうちは、この迫力が映画から廃れることは無いと確信できる。トムにとってアクション俳優とは職業ではなく、彼そのものだから。作中で何度も登場する以下のセリフは、トム自身が体現して見せてくれている。

 

“Don’t think. Just do.”

「考えるな。行動しろ。」

 

本作の見どころをもう一つ。役者陣全員、歯並びがキレイで真っ白です(笑)もうキラッキラしてんだから!!

 

 

さて、次は何観ようかな。

『硫黄島からの手紙』を観て。

硫黄島からの手紙』 2006
【原題】Letters from Iwo Jima
【監督】クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)

 

 

我々の子供らが、日本で一日でも長く安泰に暮らせるなら、我々がこの島を守る一日には意味があるんです!」

 

太平洋戦争で最も激しい戦いと評される「硫黄島の戦い」を、巨匠クリント・イーストウッドが日米双方の視点から描いた「硫黄島2部作」。本作はその2作目、日本兵の視点から「硫黄島の戦い」が語られる。

現代(2006年)の日本、戦跡調査隊は硫黄島(東京都小笠原諸島)の地下壕を調査中、地中に埋められた数百通もの手紙を発見する。それは太平洋戦争下、アメリカ軍の侵攻から日本を守る最後の砦となった硫黄島で戦い続けた日本兵たちが家族に綴り、届くことのなかった手紙たちだった。彼らはどのように戦い、何を想い、どのように敗れたのか。この物語は、その圧倒的な兵力差から5日で終わると予想された戦いを、必死の抵抗により36日間守り抜いた日本兵たちの物語である。

 

日本が戦(いくさ)に敗れたりと言えども、いつの日か国民が諸君らの勲功を称え、諸君らの霊に涙し黙祷をげる日が必ずや来るであろう。安(やす)んじて国に殉ずるべし。」

 

当時を生きた人々の想いというのは残りにくく、簡単に忘れ去られてしまうものである。特に、正直な気持ちをさらけ出すことが憚(はばか)られた時代のソレは、当事者たちがどんどん減っていく状況において、手紙という方法がひょっとしたら唯一の残す方法なのかもしれない。偽りのない、ありのままの想いがそこに残されている、貴重な資料である。そこから汲み取れるのは、現代を生きる我々と全く違う価値観であったり、また逆に、我々と寸分も変わらない想いだったりする。届くことはないと知りながらも、極限の精神状態の中で、よくぞ書き留めてくれていたと感謝するべきだろう。

 

「余は常に諸氏の先頭にあり。」

 

アメリカ人の監督により制作されたアメリカ映画ではあるものの、本作で描かれている「日本」の姿には一切の偏りは無く、極めて理性的に作られた作品であると感じる。それはイーストウッド監督の手腕と、主要キャストを日本の名優たちで固め、全編通して日本語で物語が語られているからであろう。これは一見当然のことのように思えるが、実はものすごいことだと思う。かつて戦争で敵対した国の兵士たちを、これほど中立に描くことができるものだろうか。

 

しかし、どんな偉業も内容が伴わなければ意味がない。本作はそこのところも抜かりない。どの俳優の演技も心に焼きつく熱さがあるが、物語をけん引する2人、渡辺謙さんと二宮和也さんについて触れたい。

日本が誇るハリウッド俳優、渡辺謙さんが演じる栗林忠道陸軍中将は知将として知られ、アメリカ軍に「最も手ごわい敵の一人だった」と言わしめたほどの人物だ。在米日本大使館駐在武官だった経験もあり、当時としては珍しくアメリカに精通していた軍人だった。そんな彼も、良き夫・良き父親であり、コスモポリタン(国際人)としての合理的でしなやかな一面がある一方、大日本帝国陸軍の軍人としてその真逆(非合理的)な一面との間で葛藤する。厳しい戦況下、最前線で指揮を執っていた陸軍将校の知性と気迫を見事に体現している演技には息を呑む凄味がある。

一方、二宮和也さんが演じられている西郷という兵士は、本作においてただ一人、どこか浮いたような異質な存在感を放っている。それは、他の主要登場人物のほとんどが生粋の軍人であるのに引き換え、彼は召集令状で戦地に呼ばれた応召兵だからである。軍人とは違う視点で戦争を見ている彼の視点は、つまりは我々が持つ視点に近い。本作を観る我々は彼の眼を通して、戦場の過酷さや、軍隊の異常さを感じていることに気が付く。死をも恐れぬ軍人たちの中で、生きたいと葛藤する一兵卒の苦悩を見事に表現している。

 

「不思議なもんだな、家族のために死ぬまでここで戦い抜くと誓ったのに、家族がいるから死ぬことを躊躇う自分がいる。」

 

本作には戦時中の日本の「狂気」がしっかりと描かれている。「おめでとうございます!」や「万歳!」などの言葉が、戦争映画(戦時中)では全く違った風に聞こえるから恐ろしい。特に目を覆いたくなるのは兵士たちの末路。武士道精神を叩きこまれた軍人は、かつて主君と家臣の関係で成立していた理念を、天皇と軍人という関係性で継承しており、戦場で死ぬ覚悟を持ち、潔い死を遂げることが美徳として教育されてきている。

 

しかし、彼らの本音はどうだったのだろうか。手りゅう弾を握りしめるその表情から、どんなことを汲み取れるだろうか。武士道というこれまで日本人の誇りと思い信じてきたものが、とても恐ろしく悲しいものとして映し出されていた。それでも、たとえ敗色濃厚でも、祖国のため、家族のため、戦い続けるしかない兵士たち。彼らが本当は何のために闘っていたのかを、忘れてはならない。

 

「ここはまだ日本か?」
「はい、日本であります。」

 

単純な美談として捉えるべきでは断じてないが、狂気に満ちた軍人たちの散り際に、ある種の美しさを感じてしまう自分がいた。戦争映画は恐ろしい。だからこそ改めて、自らに言い聞かせ、戒めたい。

 

戦争に、栄誉の死はない。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『父親たちの星条旗』を観て。

父親たちの星条旗』 2006
【原題】Flags of Our Fathers
【監督】クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)

 

 

"Now, the right picture can win or lose a war."
「劇的な写真は時に戦争の勝敗すら決めるものだ。」

 

太平洋戦争で最も激しい戦いと評される「硫黄島の戦い」を、巨匠クリント・イーストウッドが日米双方の視点から描いた「硫黄島2部作」。本作はその1作目、アメリカ兵の視点から「硫黄島の戦い」が語られる。

硫黄島の戦いにおける最重要拠点である摺鉢山(すりばちやま)を陥落させたアメリカ軍は、山頂に星条旗を掲げる。この瞬間は写真に収められ新聞に載り、戦争で疲弊していた多くのアメリカ本土の人々に勝利が目前であるという希望のメッセージを与える。この写真に写っていた3人の兵士は帰国後、戦争の英雄としてもてはやされ、戦費調達のためのプロパガンダに利用される。命からがら死地から生還した彼らは、英雄扱いされることに葛藤するのだった。

 

"Most guys I knew would never talk about what happened over there. Probably because they're still trying to forget about it. They certainly didn't think of themselves as heroes."
「私が知る者は皆あの戦場の話を嫌った。たぶん忘れたかったんだろう。彼らは断じて、自分自身を英雄だとは思っていなかった。」

 

歴史の教科書などで誰しも一度はこの印象的な写真を目にしたことがあるのではないか。第二次世界大戦中にアメリカの写真家ジョー・ローゼンタールにより撮影された報道写真「硫黄島星条旗」、太平洋戦争を象徴する写真だ。ローゼンタールはこの写真でピューリッツァー賞も受賞している。現代に生きる我々が見てもパワフルなこの写真が、当時のアメリカ人にどれほどのインパクトをもたらしたか、想像に難くない。

 

当然のごとく、戦地から遠く離れた人々は興味を持つ。「この写真に写っているのは誰なんだ?」、「ウチの息子に違いないわ!」となってしまうのも無理はない。なんてことは無い(って言ったら申し訳ないが)、ただ数人の兵士が旗を立てているだけの写真なのに。報道において、写真は言葉よりも多くを語る場合がある。それが戦争中という極限状態であれば、人々のナショナリズムへの影響も一入に大きかったに違いない。

 

アメリカ人にとっての星条旗は、日本人にとっての日章旗(日の丸)とはまた少し違う価値を持っているように思う。イギリスからの独立を勝ち取った移民で構成された自由の国、アメリカ。彼らは建国当初より、この旗の下で一致団結してきたのだ。アメリカ人にとってこの旗は自らのアイデンティティそのものなのかもしれない。だから、アメリカの国歌のタイトルは「星条旗(A Star-Spangled Banner)」、激しい戦いの中でも勇ましく翻っていた星条旗のことを歌っているのだ。アメリカを束ねてきたこの旗が、世界中を巻き込んだ大戦の激戦地(敵地)に立てられることの意味は、この映画を通して我々も少しは理解できる気がする。

 

“I finally came to understand why they were so uncomfortable being called heroes. Heros are something we create, something we need."
「彼らがなぜ英雄と呼ばれるのを嫌がったのかわかる気がする。英雄とは必要に応じて人が作り上げるものだ。

 

この作品のキーワード「英雄」。英雄と聞くと、どうしても崇高なイメージを思い浮かべてしまうが、戦争において英雄という言葉は危険な勘違いを生んでしまう。戦場で目にした光景、自らの行い、散っていった仲間たちを想えば、兵士はこの称号に手を叩いて喜べないのだろう。本作に登場する3人の若いアメリカ兵たちもまた、この「英雄」という言葉に苦しむことになる。たまたま写真に写り、たまたま生き残っただけなのに、皆が自分たちを「英雄」と呼ぶ。その称号に相応しい者は、あの地で死んでいった者たちのはずなのに。祭り上げられるほど、ちやほやされるほど、「英雄」と呼ばれることに耐えられないのである。戦争を生き延びてもなお、それこそ死ぬまで葛藤し続ける彼らの姿が目に焼き付く。

 

"They may have fought for their country, but they died for their friends."
「彼らは国のために戦ったのかもしれないが、友人たちのために死んだの。」

 

戦争が終わってもなお、戦争に勝ってもなお、生き残ってもなお、苦しみ続けた兵士たちを描いた本作は教えてくれる。

 

戦争に、英雄はいない。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『アデライン、100年目の恋』を観て。

アデライン、100年目の恋』 2015
【原題】The Age of Adaline
【監督】リー・トランド・クリーガー(Lee Toland Krieger)

 

 

“Tell me something I can hold on to forever and never let go.”

“Let go.”

 

ある事故と、その時に起きた奇跡がきっかけで、年を取らない体になってしまったアデライン・ボウマン(ブレイク・ライブリー)。100歳を超えている彼女の容姿は29歳のまま、名前を変え、住まいを変え、世間から身を隠しながら孤独に暮らしていた。一人娘フレミングエレン・バースティン)もいつしか自分の年齢を越え、祖母と偽らざるを得なくなり、唯一心を赦せる愛犬に先立たれる喪失感にも耐えられなくなっていた。そんなある日、彼女は青年エリス(ミキール・ハースマン)と出会い、恋に落ちる。しかし、100年におよぶ人生の中で、アデラインはエリスとの間に不思議な縁があることに気がつく。

 

“I mean a future together, growing old together. Without that, love is, uh… It’s just heartbreak.”
「2人で共に老いていく将来のことよ。それがなければ愛は…辛いだけ。」

 

ファンタジーラブロマンス、SF(Science Fictionの略)に、ほんの少しサスペンスのエッセンスが加わった、「数奇」な雰囲気を持つ一作。「数奇」といえば、2008年に公開された『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(老人として生まれ、年を取るごとに若返っていく主人公をブラッド・ピットが演じた作品)とどこか似た空気感を感じる。本作では、29歳の姿のまま100年以上生き続けてしまうという数奇な運命に翻弄される一人の美しい主人公アデラインをブレイク・ライブリー演じている。彼女が表現する「美しさ」には注目だ。表向きの29歳としてのエレガントな美しさに加え、100歳としての経験と知性が醸し出す落ち着いた美しさも感じさせ、深みのある「美しさ」を表現している。

 

“All these years, you’ve lived but you never had a life.”
「もうこの辺で失われた人生を取り戻せ。」

 

太古の昔より人類が追い求め続ける永遠の夢、少年漫画に登場する悪役のほとんどが抱く野望、「不老不死」。本作は、そんな夢のような体を手に入れてしまった一人の女性の物語だ。時間の経過に影響を受けない体は、一見羨ましいように思えるが、決してそんなことは無いということを本作は示してくれる。世界を征服する力も無ければ、魔法も使えない、一人の生身の人間が背負うとき、「不老不死」という人類の夢は「呪い」と化してしまう。

 

仏教に「生老病死(しょうろうびょうし)」という言葉がある。人間が人生で避けることができない4つの根源的な苦しみを意味する言葉だ。老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみは予想できるが、何より先に「生きる苦しみ」があるということを、お釈迦様は説かれている。永遠に生きるということの負の一面、自分だけ立ち止まる恐怖、喪失と向き合い続ける恐怖、アデラインがこれらの恐怖と向き合っていることが、本作で見せる哀愁の表情に表れている。人生(人が生きるということ)の価値は有限の中にあるように思う。限りある命だからこそ、人は精一杯生きるのだ。

 

“Adaline, you okay?”
「アデライン、大丈夫か?」

“Yes, perfect.”
「ええ、完璧よ。」

 

生きる苦しみについては、実はほとんどの人がすでに認識していることなのではないだろうか。病む苦しみ、死ぬ苦しみは言わずもがなだろう。そうすると、不思議なことに、「老いる苦しみ」には幸福な一面もあるように思えてくる。「年は取りたくないねぇ~」という意見もあるが、誰かと共に老いる幸せを感じながら年を取れるなら、これほどの幸福はない。本作のラストでアデラインの身に再び起きる奇跡、一般的には嫌なことと捉えられがちだが、アデラインにとってそれは“perfect”なのだ。

 

生きることの負の一面、老いることの幸福な一面、物事は捉え方次第だ。

 

 

さて、次は何観ようかな。