映画を観て、想うこと。

『サウスポー』を観て。

『サウスポー』 2015
【原題】Southpaw
【監督】アントワーン・フークア(Antoine Fuqua)

 

 

“You’re ready. Don’t get hit too much.”
「よさそうね。打たれ過ぎないで。」

 

43戦無敗のライトヘビー級チャンピオン、ビリー・“ザ・グレート”・ホープジェイク・ギレンホール)は怒りを武器に戦う捨て身のファイトスタイルで栄光を勝ち取ってきた。ある日、ビリーは同じ孤児院で育った妻モーリーン(レイチェル・マクアダムズ)を、自らの抑えきれない怒りが招いた揉め事に巻き込み、亡くしてしまう。最愛の妻の死で自暴自棄になった彼は、地位も、家も、娘レイラ(ウーナ・ローレンス)の心も、何もかもを失ってしまう。すべてを失った彼は、再帰をかけ、かつて苦戦した対戦相手のトレーナーだったティック・ウィルズ(フォレスト・ウィテカー)のジムを訪れるのだった。

 

“Never mind. You can’t even hear the question.”
「もういい。何もわかってない。」

 

主演を務めるジェイク・ギレンホールの特徴的な「目」による演技は本作でも一層際立っている。具(つぶ)さな感情の動きも「目」に表現できる彼の演技力は、人生の転落から這い上がるボクサーを演じる本作においても輝きを放っている。鮮血が流れ込む怒りを湛えた目に加え、ライトヘビー級チャンピオンに相応しい仕上がりの「体」も見どころ。キャラクターの性格に信憑性を持たせている。

 

“Right now you got two weapons. Shotgun and a grenade. All power, no precision. I want you to use your other arsenal.”
「今のお前の武器は2種類、ショットガンと手榴弾。破壊力はあるが、正確じゃない。他の武器を使え。」

 

栄光からの転落、そして再生を描いた本作では、物語の序盤と終盤でビリーという人間がボクサーとして、そして人として大きく変化(成長)する。序盤のビリーは、まるで「野獣」。ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら相手を挑発し、相手に打たることで怒り、ボルテージが上がるのを闘争心むき出しな表情で待つ姿は、アスリートというよりは荒くれ者、ボクサーというよりは喧嘩屋だ。勝利はするものの、血まみれでボロボロになるビリーは、この戦い方しか知らない。そんな、むき出しの怒りで作り上げたスターダムを、これまた怒りのせいで失ってしまうことになる。

 

“My wife would have liked you.”
「妻と気が合っただろうな。」

“I appreciate that.”
「そりゃよかった。」

 

ビリーにとって転機となるのが、フォレスト・ウィテカー演じるトレーナー、ティックとの出会いだ。ビリーとは対照的に、落ち着いた雰囲気で囁(ささや)くように指導するティックの言葉は、静かなのに力強い。リングに張ったロープを使った地味なトレーニングのシーンが、この作品において一際パワーの詰まったコア(核)のように思う。

 

自傷行為のようなファイトスタイルは卒業し、左肩と右手はアゴを、L字型に曲げた左ヒジはボディを守り、ディフェンスをしながら(自分を守りながら)戦うようになったビリーの姿は、紛れもなく真のボクサーのそれだ。同時に、打たれなくなることで自制心が芽生え、自らの怒りもコントロールできるようになったビリーは、怒りっぽい子供から自立した大人にも成長していく。妻を失わなければ出会わなかった信頼できるパートナー(トレーナー)、妻を失わなければ手に入れられなかった闘い方、ティックが授ける技術が、精神的にも肉体的にも、ビリーを救うことになる。そして、作品終盤で繰り出される必殺サウスポーへとつながっていく。

 

“Just go home, okay?”
「おうちへ帰ろう。」

 

怒りは「捨てる」のではなく、「使う」ものなのかもしれない。「何くそ!」と思っている時に沸々と湧いて来る爆発力、誰しも一度は感じたことがあるはずだ。この熱を使わない手はない。作中でも、ティックは「怒りをさらけ出すと無防備になり、消耗する」と教えているが、「怒るな」とは一言も言わない。「怒り」は決して悪いものではない。怒りを利用する、怒りを支配する、その術を身に付けたい。

 

強いのは、静かに怒れるヤツ。怒りを飼いならしているヤツ。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『少林寺三十六房』を観て。

少林寺三十六房』 1978
【英題】The 36th Chamber of Shaolin
【監督】ラウ・カーリョン劉 家良

 

 

「塀は低いが、いいか、仏法の壁は高いぞ。」

 

明が滅び、清の台頭による圧政が進む広東。反清復明運動に加わる反乱分子を狩る張将軍とその配下の者に父と友人を殺されてしまった裕徳/ユウダ(リュー・チャーフィー)は、復讐を誓い、武術の総本山・少林寺を目指す。自らも追われる身の中、命からがら逃げ延び少林寺に辿り着いた裕徳は、寺での修行が認められ、新たに三徳/サンダの僧名を授かり、寺に設けられた三十五の修行房で鍛錬の日々に励むのだった。

 

「学問をしなきゃ、善悪はわからないさ。」

 

なぜか職場で本作が話題になり(はいそうです、原因は自分です)、同僚の間でDVDを回覧してしまった(何の普及活動なんだか)。「面白かった!」とDVDが返ってくるたびに言われるので、「どんな映画だっけ?」となり、自分も再鑑賞。主人公が復讐のために力を求める王道プロット、成長の過程を「修行」という形で描く正当なカンフー映画、「こりゃ面白いわ!」と再確認できた。

 

主人公のサンダは少林寺に設けられた三十五の房で修行を積み、まるでテレビゲームのステージをクリアしていくような感覚で、次の房へ、次の房へと進む中で新たなことを学びながら強くなっていく。その修行の様子が、実にユニーク。「なんじゃそりゃ(笑)」と思わず吹き出してしまうようなツッコミどころ満載な鍛錬も、物語の終盤、実戦で活きる成果として描かれている。無駄な努力はない。短剣を脇に付けて水桶を運ぶサンダの姿が、亀仙人のもとで重たい甲羅を背負って修行をする悟空と重なった(ドラゴンボールが好きな人は、間違いなく本作も好きなはず)。

 

「習いたい者には誰にでも教えるべきではないでしょうか。」

 

外界と隔絶された寺で受け継がれる少林寺武術は門外不出の代物である。この掟にも、サンダは立ち向かう。学びたい者には教えるべきと考えるサンダの志は意外にも、復讐心に燃える青年とは思えないほど崇高なのである。少林寺には三十五房までしかない。この事実とタイトルとの差異が本作のミソだ。

 

「文武両道」という言葉について、考えさせられた。学問と武芸のどちらにも優れているべきという人としてのあるべき姿を説いた四字熟語だが、「文」と「武」、この2つの両立は不可欠なように思う。違う言葉で「ペンは剣よりも強し」(言論の力は権力や武力より大きな影響力がある)という言葉もあるが、実際は悲しいかな、刀で襲ってくる相手に万年筆で立ち向かうことはできない。一方、「武」は気を大きくし、時に人を暴走させてしまうことがあるから、それを制御する必要も出てくる。自らに降りかかる脅威から身を守るために身に付ける「武」には、それを正しく使うための「文」も必要になる。強いだけではダメ、賢いだけでもダメ、どっちも大事なのだ。

 

「どんなすごい武器があっても、その使い方を知らなければ何の役にも立たない。」

 

色んな事を考えさせられた作品だが、本作のラスト(復讐劇の結末)が個人的には一番のツッコミどころだった。ここまで来たら「赦し(ゆるし)」というメッセージも期待したが・・・まあいっか。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『THE FIRST SLAM DUNK』を観て。

THE FIRST SLAM DUNK2022
原作・脚本・監督】井上 雄彦

 

 

「あきらめたら、そこで試合終了ですよ。」

 

1990年~1996年にかけて週刊少年ジャンプに連載されていた伝説的バスケマンガ、『スラムダンク』。単行本全31巻の中に詰め込まれた高校生たちの4か月間(意外と物語の中での時間経過は短い)の熱い青春、その一部が3DCGアニメーションで甦る。

 

「これで勝つしかなくなったぜ。」

 

一緒に映画館に観に行った友人(バスケ経験者)は、前のめりになりながら観ていた。無理もない。バスケ経験のない自分にとってすら『スラムダンク』というマンガは特別な作品だ。誰が言ったか、「青春マンガの金字塔」とは言い得て妙だ。夢中になって読んだ青春時代が懐かしい。そんな、展開や結末も熟知していたはずの『スラムダンク』に、また感動させてもらった。

 

単なる昔ヒットした作品の焼き直しではない、本作『THE FIRST SLAM DUNK』は、懐かしさと新しさを融合させた傑作だ。作品に精通している原作ファンにとっても、原作を読んだことがない人にとっても、あらゆる人にとって初めてとなる体験が織り込まれていた。誰もが手に汗握り、目に涙と浮かべながらスクリーンに釘付けにされること間違いなしだ。

 

「ぶっつぶす。」

「受けてやる。」

 

映画が始まって真っ先に感じたのは、「井上先生の絵が・・・動いてる」という衝撃と感動だった。マンガ原作のアニメーション映画は、どうしても原作の絵と雰囲気が離れてしまうことが多いが、本作においてはそんなことは起こりえない。それもそのはず。本作は監督も脚本も、原作者である漫画家・井上雄彦先生が手掛けている(漫画家って、なぜか「~先生」って呼んじゃうよね)。

 

井上先生の「絵」には力がある。線はそれほど多くないのに緻密、繊細なのに迫力がある。まるで絵が生きているように感じる描写力。そんな井上先生の絵が3DCGという技術と融合し、バスケットボールの試合シーンは見事な仕上がりになっていた。ドリブル、ダッシュ、パス、シュート、実際の試合では見られない(コートの中にいないとわからない)角度・視点からの細かな動きはある意味現実(リアル)を超えていたようにも思う。そんな中、マンガでは小さなコマで描かれていたさり気ないユーモアも、細かな演出でスクリーンに盛り込まれていた。ニクイね~。

 

「心臓バクバクでも、精一杯平気なフリをする。」

 

加えて、井上作品のもう一つの魅力である哲学的な「言葉」も健在だ。原作を読んだことがない人でもなぜか知っているセリフがあるほど、もはや一般常識のレベルにまで達しているスラムダンクの名言。あるシーンでは、無音の演出の中でキャラクターの口が動いているだけの発せられていないはずのセリフも、なぜか自分にははっきり聞こえてしまっていた(「〇手は添えるだけ」)。それほど力がある有名な名台詞が数々登場する中、本作で新たに登場する名言・格言も。井上作品は絵だけでなく、言葉にも力がある。

 

「はいあがろう。「負けたことがある」というのが、いつか大きな財産になる。」

 

「絵」と「言葉」、井上作品の魅力が集結する先は「人(キャラクター)」に他ならない。物語よりも人を描くことを重視する井上先生の作品は、キャラクターが物語を引っ張っている。確かに、主要キャラクター5人(湘北高校の桜木、赤木、流川、三井、宮城)は全員が主役級のキャラクターだし、原作マンガを読んだ誰もがこの5人の誰かに自分を投影し、感情移入していたように思う。そして今作は、この中のあるキャラクターがフォーカスされて物語が進む。彼の人物背景、試練、葛藤、そして勇気、克服、前進が描かれている。「人」が描けていれば物語・ドラマは魅力的になる。これぞ真理だ。

 

「俺に必要な経験をください。」

 

井上先生、ありがとうございました。これだけの作品ですから、生みの苦しみは並大抵のものではなかったことと推察いたしますが、人々に与えた感動も一入(ひとしお)です。少しお休みいただき、次は是非この感動を『バガボンド』でもお願いいたします(武蔵が動くのを、見たいのです)。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『フリー・ガイ』を観て。

フリー・ガイ』 2021
【原題】Free Guy
【監督】ショーン・レヴィ(Shawn Levy)

 

 

“Don’t have a good day. Have a great day.”
「ただのいい日ではなく、素晴らしい日を。」

 

ガイ(ライアン・レイノルズ)は「サングラス族」が支配する街「フリー・シティ」に暮らす真面目な銀行員。毎朝規則正しく目覚め、ペットの金魚に挨拶し、同じ制服を着て、同じコーヒーショップでコーヒーを注文し、銀行を訪れる人に同じ言葉で挨拶をし、いつも通り、銀行強盗に合う。毎日が同じことの繰り返し、今日もまた変わらぬ一日になるはずが、ガイは一人の「サングラス族」の女性ミリー(ジョディ・カマー)に一目惚れをする。理想の女性との出会いと、「サングラス族」から拝借したサングラスをかけたことによって、ガイは「ただの人」から脱却していく。

 

“This isn’t you, you don’t do this.”
「どうかしてる、お前のやることじゃない。」

“Maybe I do.”
「やってみなきゃ。」

 

「面白かった」より「楽しかった」という感想が似合う本作。あらすじを読んだだけでは「何のこっちゃ??」かもしれないが、主人公のガイが暮らす「フリー・シティ」がオンラインゲームのタイトルであると知れば、突飛に感じるあらすじも少しは飲み込めてくるのではないか。しかも、主人公のガイはゲームの中のNPC(Non Player Character)、いわゆる「モブキャラ」であることが本作の特筆すべき点だ。モブキャラ(和製英語、モブ(mob)は英語で「群衆」の意)、RPGロール・プレイング・ゲーム)でいう村人、ドラマや映画でいうエキストラ、名前すらつかない脇役、だから主人公の名前もガイ(Guy:男)。注目されない「その他大勢」の一人が覚醒していく展開には爽快感がある。

 

仮想世界(ゲームの中の世界)と現実世界を行き来しながら物語は展開する。ゲームの中の世界は、とにかく何でもありでハチャメチャ。キレイな街並みの中で、毎日犯罪が横行し(ゲームだから)、銃弾が飛び交い(ゲームだからね)、モブキャラはないがしろにされたり腹いせの被害に遭いながら生活している(ゲームだからだよ)。かたや、現実世界ではゲームをプレイする様々な世代の人々に加え、ゲームの開発者、ゲーム会社の社長、ゲーム実況をするユーチューバーが、モブキャラ・ガイの予期せぬ動向を見守る。常識から外れているはずのゲームの世界で、プログラム通りに動かないガイの(プログラム的に)非常識な行動に「おい、何やってるんだ!?」と目くじらを立てるプレイヤーたちの姿がおもしろおかしい。

 

“And even if I’m not real, this moment is. Right here right now. This moment is real. I mean, what’s more real than a person trying to help someone they love? Now, if that’s not real, I don’t know what is.”
「俺がリアルじゃなくても、この瞬間はリアルだ。今この時この場にある。この瞬間はリアルだ。愛する者を助けようとすることがリアルじゃないなら、俺には何がリアルかわからない。」

 

「サングラス族」、これまた意味不明に聞こえるが、本作においては大事な概念だ。ゲーム内のキャラクターは「サングラス族」と「それ以外」に分かれている。サングラスをかけているキャラクターは、実際に現実世界で人(プレイヤー)が操作しているキャラクターで、サングラスをかけていないキャラクターは設計されたプログラム通りに動くキャラクターだ。このサングラスというアイテムの描き方が上手い。かけたとたんにレベルやアイテムが出現し、ゲームの世界をうまく渡っていけるようになる。世界自体を変えるのではなく、世界の見え方を変えてくれる。そんな特殊アイテムは我々の日常にもある気がする。気分を変えてくれる服やカバン、気合が入る時計やアクセサリー、自分にスイッチを入れてくれるモノは誰にでもあるのではないだろうか。

 

仮想世界を描く作品の中には、その魅力や誘惑に負け、行ったきり帰って来ないものも多い。でも、本作は結末でちゃんと現実世界に帰ってくる。しかも、「現実逃避してないで現実を見ろ!」みたいな説教臭さはなく、やっぱりリアルって素敵だよねと諭すように着地するラストが、清々しく、爽やかで、前向きな気持ちにさせてくれる。温かく、強く、背中を押された感覚が観終わった後も残っている。

 

“I’m just a love letter to you. Somewhere out there is the author.”
「僕は君へのラブレターだ。書いた人は外の世界にいる。」

 

生きる世界や他人との比較で感じる「現実」より大切なのは、他人を気に掛ける自分の「リアル」な気持ちなんだな~。そんなことを考えながら、本作のテーマソング、マライア・キャリーの“♪Fantasy”が今も頭の中で流れていることに気付いた。

 

 

さて、次は何観ようかな。

『アバター』を観て。

アバター』 2009
【原題】Avatar
【監督】ジェームズ・キャメロン(James Cameron)

 

 

“One life ends, another begins.”
「一人が死に、もう一人が生き返った。」

 

西暦2154年、元海兵隊員のジェイク・サリー(サム・ワーシントン)は地球から5光年離れた“パンドラ”という星に向かっていた。そこでは、人類が直面しているエネルギー問題を解決するカギとなる鉱物“アンオブタニウム”の採掘が行われていた。しかし、パンドラにはナヴィ族と呼ばれる先住民が、星と、そこに生息する生物たちとの神秘的な繋がりを重んじて生活していた。難航する資源開発を進めるべく、人類は遺伝子工学で開発したナヴィ族と同じ体(アバター)に人間の精神をリンクさせる“アバター・プロジェクト”を推進し、ナヴィ族との交渉を試みていた。この計画に参加することになったジェイクは、ナヴィ族の娘ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と出会い、彼らの生き方に惹かれていく。

 

“You have a strong heart. No fear.”
「あなたの心ツヨイ。恐れを知らない。」

 

名実ともに世界一の映画。2009年に公開された本作は、それまで12年間不動の地位にあった『タイタニック』(1997)の記録を抜き、その後一度は抜かれるも、現時点(2022年現在)で世界歴代興行収入1位の座に君臨している。いわば映画の王様のような作品だ。しかも、塗り替えられた『タイタニック』も、塗り替えた本作『アバター』も、監督は同じジェームズ・キャメロン。彼が映画界にもたらしている革新は計り知れない。

 

一体どうしたらこんなことを思いつくのだろうか。1995年から本作の脚本を書き始めていたというジェームズ・キャメロンの想像力の豊かさには開いた口が塞がらない。史実を元に制作された『タイタニック』とは違い、『アバター』というSF作品は一から「すべて」を創り上げる必要がある。ストーリーやキャラクターだけでなく、遥か遠い未来の人類が直面する問題、彼らが作り出した乗り物や機械、そして彼らが目指す“パンドラ”という星とそこに存在する万物。まさにこの世界の創造主となったジェームズ・キャメロンは、もはや普通の映画監督の域にはいない。

 

“Everything is backwards now. Like out there is the true world, and in here is the dream.”
「世界が逆転したようだ。あっちが現実で、ここが夢に思える。」

 

実はそんなに観返す機会がなかった『アバター』を、久々に観返すきっかけがあった。最新技術で本作を蘇らせた『アバタージェームズ・キャメロン 3D リマスター』が映画館で2週間限定公開されたからだ。「『アバター』を映画館で観られるのか・・・まあ、観とくか」的な軽い気持ちで足を運んだ自分を褒めてあげたい。逃してはならない機会だった。本作はやはり映画館で観て本領を発揮する映画だった。音と光を浴びている感覚、映画を浴びている感覚が味わえるのは、やっぱり『アバター』しかない。映画が観るものから体感するものへと進化するきっかけを作ったのは、間違いなくこの作品だ。興行収入世界一という実績は、まるでそこにいるような、映画の中にいるような体験を観客に提供し、観終わった後も「あの世界に帰りたい」と思わせ、何度も映画館に足を運ばせるほど魅了した証拠だろう。

 

“The Na’vi say that every person is born twice. The second time is when you earn your place among the people, forever.”
「ナヴィたちは、人は二度生まれ変わると信じている。そして二度目に一人前と認められる。永遠に。」

 

実はストーリーはいたってシンプル。捻りがないと感じる人もいるようだが、個人的にはシンプルだったからこそ良かったのだと思う。わかりやすいから、観客は物語を読み解くことより、飛び込んでくる映像に集中できる。足の不自由な主人公は現実世界に絶望し、もう一つの世界(パンドラ)でアバターという「足」を手に入れる。ナヴィ族と接触する中で少しずつ彼らの生き方に感化されてゆき、自分の種族との狭間で揺れ動きつつも、最終的には守るべきものを決めて戦う。ただ特筆すべきなのは、人類が侵略者であるということだ。

 

聖域に立ち入りたい人類と、故郷を侵略者から守りたいナヴィ族。科学力で侵略する人類と、星と生命の神秘的な絆の力で立ち向かうナヴィ族。この対比が壮大な映像と共に語られる。目を見張るのは、パンドラという星で生きる生き物たちの造形だ。動物、植物、森や山、そこに生きるナヴィ族と彼らの営み、見たことがあるようで、我々の知るそれとはまったく違う生態系や文化が描かれている。そして、その星に生きるモノすべてがみな不思議な絆で繋がっているという彼らのスピリチュアルな思想も、人間の科学力では解き明かせない神秘性を際立たせている。薙ぎ払い燃やし尽くすことしか能の無い無骨な機械を駆使し、生命とその繋がりをどんどん断ち切る人間の姿は、どこか現代の我々に向けられたメッセージのようにも感じる。

 

“I see you.”
「君が見える。」

 

続編『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』の公開が2022年12月に迫ってきた。ついつい期待しまう。(アバターシリーズに限らずだが)この作品を越えるゲームチェンジャー的作品が出現し、映画がまた一歩進化することを。でも、どんなに技術が進歩し、革新的な映像が生み出されても、人の心を震わすのは普遍的なメッセージなのかもしれない。

 

 

さて、次は何観ようかな。