映画を観て、想うこと。

「3」という数字について、想うこと。

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いつも当ブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。映画ブログを始めて3年が経ちました。

 

「石の上にも三年」なんていうことわざもあるくらいですから、何かを始めたらまずは3年続けられるかが一つの関門になりがちです(あっ、「三日坊主」だと3日ですね)。その(長い方の)関門を当ブログも迎えられたようで、これもひとえに私の駄文を読んでいただいている皆様のお陰と、感謝しております。3年前に始めた「映画の感想を書きとめて残す」という習慣を3年も続けられたことに、(自画自賛と言われてしまうかもしれませんが)大きな達成感を感じています。

 

この「3」という数字に、なぜか不思議な魅力を感じています。私たちの身の回りは色んな数字で溢れていますが、「3」という数字は特に際立って我々の意識に留まるような気がします。新入社員に「まずは3年辞めずに勤めてみろ」という先輩社員(これ、今でも若手は言われてるのかな?)、緊張した時に気持ちを落ち着かせるために掌に書く「人」という字の回数(これ、今でもやってる人いるのかな?)、ちょっと前には、「3の倍数と3が付く数字の時だけアホになる」という秀逸な芸を披露した芸人さんもいらっしゃいました(これ、大好きなネタなんですよね~)。

 

その他にも、「三位一体」、「三大〇〇」、「三種の神器」、「三人寄れば文殊の知恵」、「三拍子揃う」、「仏の顔も三度」、「早起きは三文の徳」など、考え出したら次々に浮かんできてしまいます。日本人は「3」という数字が好きなのかもしれない、「3」を意識せずにはいられないのかもしれない、そんなことを想っています。

 

そこでこの記事では、3周年の節目に相応しく、不思議な数字「3」にまつわる映画を「3」作品ご紹介したいと思います。

 

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スリー・ビルボード』 2017
【原題】Three Billboards Outside Ebbing, Missouri
【監督】マーティン・マクドナー(Martin McDonagh)

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"Hate never solved nothing. But calm did. And thought did."
「憎しみは何も解決しない。だが冷静さは違う。思考も。」

 

娘を無残に殺されたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)が、郊外のさびれた道沿いにある3枚の広告看板を買うところから始まる『スリー・ビルボード』。看板に掲げられたのは、捜査が進展せず犯人逮捕を実現できない警察への怒りのメッセージだった。アメリカ、ミズーリ州の片田舎を舞台に繰り広げられる群像劇、むき出しの憎しみを周囲に撒き散らすミルドレッドの3枚の広告看板と、病を患う警察署長ウィロビー(ウディ・ハレルソン)の3通の手紙が、登場人物の心と物語を動かしていく。

 

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きっと、うまくいく』 2009
題】3 Idiots
【監督】ラージクマール・ヒラーニ(Rajkumar Hirani)

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「心はとても臆病だ。マヒさせる必要がある。困難が生じたときはこう唱えるんだ。"Aal izz well(うまーくいーく)"と。」

 

英題「3 Idiots」、世界的大ヒットを記録したインド映画『きっと、うまくいく』。インド映画よろしく、歌あり、踊りありの愉快、痛快なエンターテイメント作品。インドのエリート大学に通う3人の大学生を主人公に据え、インドにおける学歴競争問題を題材に、エリートとは何か、学歴とは何か、学ぶことの意義とは何か、人生において大切なことは何なのかについて考えさせられる。合言葉の“Aal izz well” (インド英語のアクセントで“All is well”、「うまくいく」の意)が耳に残り、「3人組(トリオ)って、何かいいな~」と思わせてくれる一作。

 

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ALWAYS 三丁目の夕日』 2005
【監督】山崎 貴

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「当たり前じゃないか!明日だって、明後日だって、50年先だって、ずっと夕日はきれいだよ!」

「そうね。そうだと良いわね。」

 

昭和33年、東京タワーが完成した年の東京下町、夕日町三丁目に暮らす人々の生活にお邪魔させていただいている感覚が味わえる『ALWAYS 三丁目の夕日』。今ほど豊かではなかった時代に、今以上の活気を感じるのは、やはり人々同士の繋がり方が今と違うからなのだろうか。そんなことを、テレビのある家に町内中の人々が集まって観賞するシーンから感じる。現代で、あれほどの活気が我々の日常に湧くことはあるだろうか。本作のラストシーン、三丁目に沈む夕日(サン(3)セット、ダジャレですいません)と東京タワー(何と、高さ333メートルらしい!?)を眺める親子3人の背中にパワーをもらえる、温かくてレトロな一作。

 

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3作品とも、数々の賞に輝いた傑作です。これもまた「3」という数字の不思議な力が関係しているのかもしれません。

 

さて、近頃少し更新頻度が減ってきてしまっていますが、引き続き映画を観て想ったことを書きとめていきたいと思います。よろしければ今後とも、お付き合いいただけましたら幸いです。

 

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さて、次は何観ようかな。

『最後の決闘裁判』を観て。

最後の決闘裁判2021
【原題】The Last Duel
【監督】リドリー・スコット(Ridley Scott)

 

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“I am telling the truth.”
「すべて真実です。」

“The truth does not matter.”
「真実など重要ではないのよ。」

 

中世(14世紀)フランス、騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)の妻マルグリット(ジョディ・カマー)は、夫の親友であるジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)に性的暴行を受けたと告発する。怒り狂ったカルージュは処刑を求刑するも、無罪を主張するル・グリと、彼の側についた領主ピエール伯(ベン・アフレック)の画策により、裁判による追及は行き詰ってしまう。追い込まれたカルージュは国王シャルル6世(アレックス・ロウザー)に直談判し、真実の行方は“決闘裁判”に委ねられることとなる。

 

"There's no right. There is only the power of men."
「権利などないのよ。あるのは"男の権力"だけ。」

 

本作の監督である巨匠リドリー・スコット、彼が手掛ける歴史映画が好きだ。美しい映像と、時代に翻弄されるキャラクターの捉え方が絶妙で、作品は常に重厚な雰囲気を纏(まと)っている。帝政ローマ時代中期の剣闘士を描いた『グラディエーター』(2000年)、旧約聖書出エジプト記を映像化した『エクソダス:神と王』(2014年)、そして本作と、歴史×リドリー・スコットの方程式に当てはまる作品には特有の「重み」がある。本作も御多分に漏れず、いやテーマ的にはこれまでの作品以上に重みのある一作となっている。

 

本作は史実に基づく法廷スキャンダルを映画化した一作である。タイトルにもある決闘裁判とは、訴える側と訴えられた側の両当事者が決闘を行って判決を決めるゲルマン法の一つの方式で、実際にヨーロッパで制度化されていたものらしい。要は「もうどっちが正しいかわからないからさ、闘って決めてよ。死んだ方が有罪ね。」という何ともめちゃくちゃな裁判方式だ。「正しき者を神が見捨てるはずがないでしょ」という、今では考えられない理屈だが、それだけ昔の人にとって神という存在が絶対的であり、真実が明らかにならない場合に辿り着いた一つの答えの出し方なのだろう。負けた者が辿る残酷な末路もしっかりと描かれており、本作には歴史を知るための教材という一面もある。

 

"God will spare those who tell the truth. And the truth will prevail."
「神は真実を語る者を守られる。真実は決して負けません。」

 

本作は「三つの章」と「最後の決闘」の4幕で構成されている。第一章から第三章は主要登場人物であるカルージュ、ル・グリ、マルグリット、3人それぞれの視点で一連の出来事が描かれる。興味深いのは視点が変わると、起きた物事の捉え方が微妙に変わってくるということだ。大きくは変わらない、ただ、真実が「捻じ曲がっていく」感覚を覚える。また、視点が変わることで徐々に浮かび上がっていく人間模様にも引き込まれていく。観ている側は「あれ?そうだっけ?」、「え?そうだったの?」と、どんどん定かでなくなっていくのに、どんどん物語に引き込まれていってしまう。結果、何が本当に起きたのかはわからないまま、最後は「決闘による決着」という一つの事実が突き付けられる物語の構成となっている。

 

“You are blinded by your vanity.”
「あなたは虚栄心ですべてを見失っているわ。」

 

「真実」が3回語られる斬新なプロットの中で、やはりカギとなるのは第三章「マルグリットの真実」だろう。男→男→女と視点が移り、最後に語られる被害者の視点、女性が性暴力を受けても泣き寝入りするしかなかった時代に、命を懸けて真実を述べたマルグリットの悲しみ、恐怖、怒り、覚悟がひしひしと伝わってくる章であり、映画の核心に迫る章である。乱暴された女性の視点が捉えた一連の事象を目の当たりにすると、この時代に生きた女性がいかに過酷な現実に直面していたかを思い知らされる。作中、マルグリットが裁判官から厳しい尋問を受けるシーンがある。現代では考えられない理屈が語られ、それを科学的事実と説明される実情には開いた口が塞がらず、呆れて涙が出そうになる。性的暴行という卑劣な暴力の有無を見定める裁判の決着を、決闘というこれまた暴力でしか解決できない事実と、自らの虚栄心を守るために命を懸けて戦う男たち、そしてその行く末を歓喜して見守る権力者と民衆の様子に、何とも言えない虚しさを覚える。

 

主観がいかに事実を捻じ曲げるかが巧妙に描かれた本作を観終わった後、しみじみと考えさせられた。現代に伝わっている歴史にはどれほど「彼女たち」の真実が汲み取られているのだろう。強かったものが語った捻じ曲がった真実が、事実になり、史実になっている可能性は高い。そうなると必然的に我々が認識している歴史上のありとあらゆることが、男、権力者、多勢、そして神/神話にとっての真実なのではないか。本文を書いていて、「真実」という言葉がこれほどまでにあやふやで、何も確固たるものを示さないものなのだと気づき、驚いてしまった。何事も「鵜呑み」にするのは危険なことである。

 

“I say before all of you, I spoke the truth.”
「皆さんに申し上げます、私は真実を述べました。」

 

名探偵〇ナンの決め台詞にケチをつけることになってしまうが、「真実」はいつも一つではないように思う。実際に起こった「事実」は一つ、でも「真実」は人の数だけ散らばっているものなのかもしれない。人は自分にとって都合がいいように物事を捉えがちであり、主観や思い込みの入った人それぞれの噓偽りなき「真実」が存在することを忘れてはならない。

 

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さて、次は何観ようかな。

『空飛ぶタイヤ』を観て。

空飛ぶタイヤ』 2018
【監督】本木 克英

 

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「中小企業なめんな。」

 

よく晴れたある日、赤松運送のトレーラーが走行中に脱輪事故を起こす。ブレーキをかけた瞬間にバランスを崩したトレーラーのタイヤは空を飛び、歩行者を直撃、死傷者を出してしまう。整備不良を疑われた運送会社社長の赤松(長瀬智也)はトレーラーの製造元であるホープ自動車に再調査の依頼をするが、取り合ってもらえない。人殺しの汚名を背負った会社で働く自社社員とその家族のため、赤松は大企業の闇に立ち向かう。

 

「こっちは従業員とその家族の生活がかかってるんだ。俺が闘わなくて誰が闘う。」

 

池井戸潤の社会派小説を原作に持つ本作、大企業がひた隠しにする「闇」に中小企業の社長が立ち向かう物語。強大な悪に弱くも正しき者が立ち向かう爽快感たっぷりの一作、と言いたいところだが、実際は追い詰められ葛藤する会社の社員や、事故に巻き込まれた遺族の様子など、終始重々しい題材を扱う作品となっている。そんなシリアスな内容でも、社長というより、もはやアニキ感の方が強い長瀬さんの半端じゃない漢気(おとこぎ)には、「もうどこまででも付いて行きます!」と思わず叫びたくなってしまうような勇気をもらえる。一方、そんな若い社長を年の功で支え、「現実を見なさい」的に冷静に寄り添う赤松運送の宮代専務を演じた笹野高史さんの演技もこの作品には欠かせない。社長と専務の絶妙なコンビネーションが心地良い空気感を醸し出している。

 

「俺はやると言ったらやる。徹底的にな。最後まで闘う。」

 

本作の最重要キーワード「リコール」。広辞苑によると、“自動車などで、製品に欠陥がある場合、生産者が公表して、製品を回収し無料で修理すること”とある。欠陥のある製品を、そうと知らずに使い続けてしまう恐怖。消費者には被害者になる可能性だけでなく、加害者になってしまう可能性もあるという事実に戦慄する。リコールはあってはならないことであり、ましてやそれが隠されるようなことがあるなど、考えたくもない。ただ、実際に隠されてしまった事件も過去には起きてしまっており、リコール隠しは我々にとっても他人事では済まされない大きな社会問題である。

 

なぜ悪事は隠されてしまうのか。様々な要因があるのだろうが、一つに、社会が過ちに寛容でなくなってしまっているからという一因もあるように思う。何事においても、人や組織の本性は失敗してからの姿勢に表れると思う。隠すのか、向き合うのか。企業の誠実さは人の命にもかかわる重要なことだからこそ、憎むべきは隠されてしまうことであって、リコールそれ自体ではない。リコールは企業の誠意と捉えることもできるのではないか。何事も、失敗を許さないことよりも、失敗を隠させないことの方が大事ではないか。失敗は隠されてはじめて悪事になる、失敗それ自体は悪事ではないのだ。

 

「それでも信じてんだ。こんな状況の中で、精一杯やった想いが誰かに届いて、奇跡が起きることを信じてんだ。」

 

本作のエンドロールで流れる主題歌「闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて」は、人間社会で闘うすべての人たちに捧げられたサザンオールスターズからの応援歌だ。明るい曲調ながらも、どこか哀愁がしみ込んでいるメロディーと、以下の歌詞の一節が頭から離れない。

 

しんどいね 生存競争(いきていくの)は
酔いどれ 涙で夜が明ける
(曲:「♪闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて」 唄:サザンオールスターズ

 

正直に生きるのはしんどい。頑張りすぎるのも良くない。でも、まだ踏ん張れるなら、歯を食いしばれるなら、「俺が/私が闘わなくてどうする!!」の意気を大切に、明日も頑張りたいと思う。そうやって貫いた誠実さが、誰かに届いたり、誰かを救ったりするって信じてんだ。

 

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さて、次は何観ようかな。

『レヴェナント:蘇えりし者』を観て。

レヴェナント:蘇えりし者2015
【原題】The Revenant
【監督】アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥAlejandro González Iñárritu

 

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“What you holding to, Glass?”
「グラス、なぜ生にしがみつく?」

 

1823年、アメリカ西部の未開拓地をミズーリ川沿いに進行していた毛皮猟師の一団に現地ガイドとして息子と同行していたヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)は、見回り中に熊に襲われる。一命をとりとめたグラスだったが、瀕死の重傷を負ってしまう。一団を率いていたヘンリー隊長(ドーナル・グリーソン)は彼を抱えての山越えは不可能と判断し、彼を残していく苦渋の決断をする。グラスの最後を看取る仕事を報酬目当てで買って出たフィッツジェラルドトム・ハーディ)は、先住民の襲撃が迫る恐怖と隊との距離が離れていく焦りから、グラスの息子を殺し、グラスを地中に埋めて置き去りにする。しかし、虫の息だったグラスは怒りに取り憑かれ息を吹き返し、凄まじい生命力と復讐心でフィッツジェラルドを追跡するのだった。

 

“He’s afraid. He knows how far I came for him. Same as that elk when they get afraid, they run deep into the woods. I got him trapped. He just doesn’t know it yet.”
「奴は怯えてる。俺がずっと追ってきたことを知ってるから。恐怖を感じたものはヘラジカのように、森の奥深くに身を隠す。奴は罠にかかったことにまだ気付いていない。」

 

年明け早々、先輩に誘ってもらい山登りに行った。山の中、自然が発する音(風の音、枝葉が揺れる音、川のせせらぎ)と自分が発する音(上がった息、心臓の鼓動、自分の足音)以外、普段接する聴き慣れた音が一切聞こえない空間で、ふとこの映画のことを思い出した。誤解が無いように、決してそんな大変な山を登ったわけではない(汗)天気も晴れて風も無く、それほど厳しい寒さでもなかった。それでも、都会で生きていては決して感じることができない自然の清々しさに加え、どこか「怖い」という感覚も覚えた。地面に張り巡らされた木の根道が視界一体に広がっていることに気付いた時、計り知れない自然の生命力を感じ、怖くなった。この「自然が怖い」という新鮮な感覚がこの作品を想起させたのだと思う。家に帰り即鑑賞、大自然を満喫し尽くした一日となった。

 

“’All I had was that boy. And he took him away from me.”
「俺には息子が全てだった。奴はそれを奪ったんだ。」

 

非常にパワフルな本作が描くのは、雄大な自然の中で繰り広げられる壮絶なサバイバルと復讐劇。舞台は1823年、西部開拓期のアメリカで罠猟師による動物乱獲や毛皮の交易が盛んだった時代(日本だとちょうど勝海舟が生まれた年だ)、熊に襲われ生還した実在の人物ヒュー・グラスの伝説がベースとなっている。息子を殺した仇を追って、死の淵から蘇り、極寒の大地を這いつくばりながら進む姿、自然の脅威にも勝る怨念には震えあがってしまう(決して寒そうだからではない)。伝説となった由縁、グラスが熊(グリズリー)に襲われるシーンは、恐らく観る人にとって初めてとなる映画体験になるだろう。「人が熊に襲われるとこうなってしまうのか・・・」と、生々しく臨場感たっぷりにその獰猛な獣の恐ろしさを堪能できる。

 

息を呑むほどの自然の美しさを余すことなく捉えた本作を撮影するために、撮影クルーは過酷な大自然の中で9か月の長期間にわたるロケを敢行したとのこと。こだわられているのは「光」だ。全編に渡って太陽光と火による自然光だけを使って撮影されているということ。日照時間が短い期間では撮影も限られた短時間で行われ、制作にどれほどの手間と労力が割かれたかは想像に難くない。その甲斐あって、本作は大自然のありのままの美しさが凝縮され閉じ込められた作品になっている。セリフは比較的少なく、見どころはずばり自然と、それと格闘する役者の体当たりの演技と言えよう。

 

“I ain’t afraid to die anymore. I done it already.”
「死ぬのはもう怖くない。一度死んだ身だ。」

 

復讐が生むのは虚しさだけという、もはや聞き飽きてしまったような当たり前の教訓を、本作は印象的なラストで訴えかける。主人公ヒュー・グラスの顔がアップになり、彼の視線がスーッとこちらに向く。その瞬間、それまで怒りに満ちたギラギラした目の光が、フッと消える。この印象的な表情は、ここまでの壮絶な旅をしてきた後、燃え尽きた一人の男の虚しい結末を表現しており、ディカプリオの見事な演技に鳥肌が立ってしまった(決して寒そうだからではない)。「目の光」もまた、本作がこだわった自然光の一つだったように感じる。

 

本作でヒュー・グラスを演じたレオナルド・ディカプリオは、第88回アカデミー賞主演男優賞に輝いた。長いキャリアの中で実力をつけ、作品にも恵まれてきていながらも、アカデミー賞だけには縁の無かったディカプリオがやっと悲願の受賞を果たしたのが本作。アカデミー賞受賞式のスピーチ、限られた時間の中、言いたいことはたくさんあったであろうに、彼は一通り関係者への感謝の意を述べた後、地球が直面している環境問題について観客に訴えかける。そして、彼のスピーチはこう締めくくられる。

 

“Let us not take this planet for granted. I do not take tonight for granted. Thank you so very much.”
「この星がある事を当たり前と思わないようにしましょう。私も今夜のことを当たり前とは思いません。ありがとうございました。」

 

ずっと何を言おうか考えていたんだろうが、それにしても、カッコ良すぎる。インターネットで検索すれば授賞式の動画が出てくるので、是非2分強のスピーチを聞いてみていただきたい。

(あっ、それから、本作の音楽を手掛けたのは坂本龍一さんです(サラッとすぎてすいません))

 

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さて、次は何観ようかな。

『三十四丁目の奇蹟』を観て。

三十四丁目の奇蹟』 1947
【原題】Miracle on 34th Street
【監督】ジョージ・シートンGeorge Seaton

 

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"Mine? Kris Kringle. I'm Santa Claus. Oh, you don't believe that, do you?"
「私かね?クリス・クリングル。サンタクロースだよ。なるほど、信用してないようだね。」

 

クリスマス商戦で賑わうニューヨーク、マンハッタン34丁目にある大型百貨店・メイシーズ(Macy’s)の仮装サンタとして雇われた老人クリス・クリングル(エドマンド・グウェン)は、たちまちの内におもちゃ売り場の人気者になる。彼は自身が本物のサンタクロースであると主張するが、当然誰からも信じてもらえず、遂には精神病棟に入れられてしまう。そんな彼を救おうとする弁護士のフレッド(ジョン・ペイン)はクリスの弁護を買って出て、遂には世論を巻き込んだ裁判に発展してしまう。果たしてクリスは本物のサンタクロースなのだろうか。

 

"I intend to prove that Mr. Kringle is Santa Claus."
「私はクリングルさんがサンタクロースであることを証明してみせます。」

 

今年もまた特別なシーズンが到来した。子ども達にとっては夢のような季節だ。欲しいものを胸に、サンタさんに手紙を書く子どもたち、クッキーとミルクをツリーの横に用意する子どもたち、靴下を枕元に置いて眠りにつく子どもたち、サンタさんに一目会おうと徹夜を試みる子供たち(あの年頃の子供たちって夜更かしできないよね)。彼ら/彼女らのキラキラした想いとは裏腹に、大人たちにとっては少しせわしない季節かもしれない。本作はそんな大人たちにこそおすすめしたいクリスマス映画だ(サンタさんが裁判にかけられてしまう法廷劇モノクロ映画、子どもたちにはもうちょっと大きくなってから観てほしい)。

 

"I think we should be realistic and truthful with our children. And not have them growing up believing in legends and myths like Santa Claus, for example."
「子供にウソを教えるのはよくないと思うの。サンタのような伝説やおとぎ話を信じさせることもね。」

 

クリスマスシーズン、この季節になると全世界のご家庭の親御さんはお子さんからのある疑問と向き合っているのではないか。「サンタさんって本当にいるの?」という疑問と。本作に登場する少女スーザンは(現実主義者の母親の教育方針のため)幼くしてすでにサンタクロースの存在を信じていない。そんな達観したおませな女の子が純真なクリスの心に触れて変わっていく様は、観ていて温かい気持ちにさせてくれる。

 

印象的なシーンがある。オランダから養子としてもらわれてきた女の子がおもちゃ売り場を訪れるシーンだ。英語が話せない彼女にクリスはオランダ語で話しかけてあげる。その瞬間、沈んでいた女の子の表情がパッと明るくなる。欲しいものが手に入ったときよりも、願い事が叶ったときよりも、サンタさんの存在を信じさせてくれるような美しいシーンだ。

 

"Christmas isn't just a day. It's a frame of mind."
「クリスマスはただの日ではありません。心の持ちようなのです。」

 

子どもたちの疑問にお答えしたい。

疑問:
「サンタさんって本当にいるの?」

答え:
「いるよ!」←この部分は声を大にして。
「だって、お父さんとお母さん、みんなのために必死に頑張ってるじゃない!サンタさんは人じゃない!人の心/気持ちなんだよ!」←この部分は声に出さず表情で訴えましょう(笑)

大切なのは、特別な日を特別な気持ちで迎えることなのではないか。

 

友人からクリスマスカードが届いた。ご家族の写真が印刷されたカードに直筆のメッセージが書かれていた。自分にとって何よりのクリスマスプレゼント、特別な気持ちになった。そんな友人とそのご家族に(僭越ながら)この記事を贈らせていただきたいと思います。メリークリスマス。

 

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さて、次は何観ようかな。